無害な吸血鬼
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雨が降っていた。
水滴が頬にかかる。
馬車の中からは姉の手が見える。
白い手をぼんやりと見ていると、雨が止んだ。
空を見上げれば、黒い影が見えた。
人だ。
黒い帽子。黒い服。黒い目。
まっすぐにオレを見ている。
「お前、名前は?」
「…獄寺……」
それ以上は言葉が出なかった。思い出せなかった。自分の名前が。
名を呼ばれることなんて久しくなかった。両親はおいやお前、姉は名前を呼んでくれたけど、オレは姉から逃げ回っていた。
そんなオレの事情を知るはずもなく、その人は言葉を淡々と続ける。
「そうか。獄寺。お前、どうしたい?」
どうしたい?
急にそんなこと言われても、わからない。
したいことなんてない。ただ、別の思いが胸の中を占めていた。
今度、海に行くわよ。
そう、素っ気無く言った、母親の言葉。
嬉しかった。そう言われたとき、家族の一員に慣れたような気がして、本当に嬉しかったんだ。
「…海が…みたい……」
思わず言葉が飛び出した。
けれど嘘ではない。本心だ。
海が見たい。
海を家族と見たい。
…一緒に海を見てくれる、家族が欲しい―――
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