この世界はどこかおかしいけれど。
誰も彼も、そのことに気付かない。
――― 平行線 ―――
道がある。道がある。
真っ直ぐな道。平行な道。
足が踏み締める感触は土。脇には草花が咲いていて、視界を上に向ければ一面の青空が広がっている。
歩いている。歩いている。
急ぐわけでもなく、しかし休むこともなく。
時折吹く風が頬を撫で、草花を揺らし、微かに土埃を舞わせている。
真っ直ぐな道を、休むことなく歩く彼。
彼は何故自分が今その道を歩いているのか知らない。
いや、それどころか今自分がいるその場所がどこなのかすら知らない。
そして、不思議なことに不可解なことに―――彼はその事に、何の疑問も持っていない。
まるで夢の中にいるかのよう。
当たり前のように彼は歩き。
当たり前のように彼は進み。
当たり前のように彼は向かう。
どこへ?
知らない。
どうして?
分からない。
けれど足は止まらない。
まるで行くべき場所を知っているかのように。
……どれだけ、歩いただろうか。
景色はまるで変わらない。真っ直ぐな道に草花。
時間はまるで変わらない。青い空に、そよぐ風。
まるで、実はこの道は緩やかに曲がっていて、巨大な円の中をぐるぐる回っているかのようだった。
そんな錯覚を頭の片隅に覚えながらも、何故だか深くは考えず―――考えられず、ただひたすら歩き続けた。
そして―――やがて。
道に、景色に、世界に変化が。
道は途切れ、その先には湖が。
草花は消え去り、その代わりに大きな樹が。
青空だけは変わらず、上も下も真っ青に染まっている。
そして。
大きな樹の木陰。樹にもたれかかり、目を瞑り、吹く風に身を任せている誰かが一人。
―――誰だったか。
彼はその人を知っているはずなのだが、何故か思い出せない。
やがて誰かは彼が来たことが分かったのか、それともたまたまか閉じていた瞼を開けて。
自然と彼の姿を視界に収め、すると見るからに身体を強ばらせて驚いていた。
「な―――――」
誰かの口から、そんな驚いた声。
そうする間にも、彼はすたすたと歩き進み向かう。
彼は誰かに目もくれず、当たり前のように湖の向こうへと行こうとする。
それを見て、誰かが彼に慌てて声を掛けた。
「ま…待って下さい!!」
「ん?」
声を浴び、彼は足を止め誰かに目を向ける。
視線が平行し、目が合い、お互いの姿を認める。しかし、彼にはやっぱり誰かが誰なのか思い出せない。
思い出せないまま、彼は誰かに声を返す。
「なんだ?」
「…どちらへ行かれるおつもりですか?」
どちらへ……どこへ。
彼は目線を湖へと戻す。
「ここの、ずっと先だ」
「どうして、この先へ?」
「分からない。しかし、行かなければならない。…そんな気がする」
明確な理由はないけれど。
明確な目的もないけれど。
されど明確な意思を持って。
この先へ。
誰かはそんな彼にため息を吐き、どうしたものかと言わんばかりに頭を掻いた。
そしてこの暖かな日差し、緩やかな風、穏やかな世界に似合わない真逆の―――冷たい声を彼に投げかける。
「お戻り下さい」
「―――」
「あなたはオレと違う。ここにいてはいけません」
「お前はオレを知っているのか?」
「分かりません。知っていたとして、思い出せません」
彼と同じ認識だった。
「お前はここを知っているのか?」
「分かりません。気付いたらオレはここにいました」
彼と同じ認識だった。
「お前は誰だ?」
「分かりません。どうにも記憶があやふやで、自分の名前すら知りません」
彼と同じ認識だった。
「けれど、それでもあなたがここにいていい人間ではないということは分かります」
「お前はここにいていい人間なのか?」
「ええ、まあ…恐らく」
歯切れの悪い答え。そこだけは何故か即答ではなかった。
しかしその程度の答えではいそうですか分かりましたとそのまま来た道を引き返すような彼ではない。
「だが、オレはこの先に行かなくちゃならない」
「何故ですか?」
「さあ。理由なんて知らんが……行けば分かるんじゃないか?」
本来の彼らしくない、アバウトな答え。
しかし今この時、彼は本来の自分というものを忘れているのだからそれは仕方のないことなのかも知れない。
誰かはまたため息を吐く。彼を説得するのは骨が折れる行為だと、何故だか知らないが知っていたからだ。
進みたい彼と、戻らせたい誰か。
二人の意思は噛み合わず、意見は聞き入れられず、けれどお互い一歩も引かない。
見事に交わらない話し合いの末、誰かは埒が明かないと判断したのか彼の近くへと進み出る。木陰から日向へ。
誰も彼も気付かない。
誰かに影がないことに。
誰も彼も気付かない。
彼にも影がないことに。
誰かは知っているのかも知れない。
ここが死後の世界であることを。
彼は知っているのかも知れない。
向こうが死者の国であることを。
誰かはきっと知っている。
自分はともかく、彼は戻ればまだ間に合うかも知れないと。
彼はきっと知っている。
どこか遠いその場所で、
―――――自分に取り付けられた心電図が、平行線になったことを。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼らは生きていても死んでいても変わらない。
お互いがお互いのことを想い合い、擦れ違う。