思ったよりは、長く生きたと思う。


いくつもの病気を抱えて。いつ死んでもおかしくない身で。





けれど、もう、終わりみたいだ。


自分の身体のことなんて、自分が一番よく分かってる。


どこが駄目で、どこがどうなってるか。


何の病気が再発してて、どの器官がやられているか。



いつ、死ぬか。



全てが分かる。手に取るように。


すっと、椅子から音もなく立ち上がる。



デスクの上には乱雑に置かれた書類。ペン入れ代わりに使っているマグカップ。分厚い専門書。読書用の眼鏡。


それらには目もくれず、出口へと歩く。



室内には脱ぎっぱなしの衣服。仕舞われた音楽メディア。誰かから貰った封すら空けられていないワインボトル。


それらには目もくれず、廊下へと出る。



辺りには誰もいなかった。それもそのはずで、今は真夜中。皆寝ているか自室にいるはずだった。


好都合だった。誰にも知られたくなかった。誰にも見られたくなかった。



てくてくと歩く。外に向かって。外を目指して。


オレのいる場所から外に出るには、事務所を通る必要があった。事務所のドアは閉じられてあった。そしてドアからは光が漏れていた。



事務室は明かりが付いていた。


事務室には誰かがいた。



出来ることなら誰にも会いたくなかったのだが、まぁ仕方ないか。なるだけ自然に2、3話をして別れよう。



オレは事務室への扉を開いた。


中に人が一人だけいた。


オレの位置からだと背を向ける格好で、机に向かって何かの書類と格闘していた。



そいつが誰かなんて、顔を見なくても分かった。


その髪は、医師として大勢の人間を見てきたオレからしても珍しいものだった。銀の髪。隼人の髪。



「精が出るな、隼人」


「シャマルか」



隼人はオレに気付くと書類からオレにと目線を替えた。誰の真似か、眼鏡なんぞ掛けてやがる。



「どうしたんだ? こんな夜中に」


「ちょっと散歩。おじさんはこんなに月の綺麗な夜はお出掛けしたくなっちゃうのよ」


「はぁ…?」



少しふざけて返すと、案の定というか、隼人は呆れたかのような声を出した。ついでに馬鹿かとも言われた。



「こんな時間にフラフラしてっと、夢遊病と間違われるぞ」


「あと痴呆とかな」


「自分で言うか」



また隼人は呆れ顔をして、ため息を吐いた。そしてまたオレに背を向けて書類との格闘に戻る。休憩は終わり。背中がそう告げていた。


オレも出口へ外へと向かっていく。扉に手を掛ける。開く。足を踏み出す。出て行こうとする。そこに、



「シャマル」



オレの背に、声が掛けられた。


隼人の声だった。



「………なんだ?」



声色には出してないが、オレは少し驚いていた。今までこうして話が終わってからまた隼人が声を掛けてくることなどなかったから。


そんなオレの心情には絶対気付いてないのだろうが、隼人の声はいつも通りだ。本当にいつも通りで、目はきっと書類に向けられたままで。なのにオレに声を掛けてくる。



「何時頃帰って来るんだ?」


「―――」



口を開いたは良いが、言葉が出なかった。


帰ってくるつもりがないのだから、答えようがなかった。


つか、こいつ、なんで。


隼人のことだから特に何も考えてなくて適当に放った言葉なんだろうが、意外に良い勘してやがる。



「…シャマル?」



問いかけに手間取っているうちに不審に思ったのか、隼人が怪訝そうな声で聞いてくる。ここで不自然なのは、不味い。どうにか誤魔化せ。オレは隼人の方へとゆっくり向いた。


「…ん? なんだ? 今なんか言ったか隼人」


「って、聞いてなかったのかよ!!」



即座に突っ込まれた。カラカラと笑えば隼人の表情が一層不機嫌なものに変わる。



「………ったく、何時ぐらいに帰ってくるんだって聞いたんだ、馬鹿」


「そうだな…まぁ、明け方頃か」


「ふーん…」



せっかく答えてやったというのに、聞いてきた隼人はどこか冷めていた。


と、隼人は懐に手を伸ばしたかと思うと、何かをオレに向けて投げてきた。手に取ってみると、煙草の箱だった。



「それ、切らしたんだ。出掛けるなら買って来い二カートン買って来い」


「お前…それが目上であり師匠でもある人間に物を頼む態度かね……」



オレは煙草を白衣のポケットに仕舞った。


「言っとくが買ってこねーぞ。自分の買い物は自分でしろ」



買っても帰ってこないんだから。


それは心の中だけで言い留めて、オレは外に出た。


扉を閉めて、隼人の姿が消えた。





やれやれと息を吐いて。


真っ直ぐに、目を向けて。



オレは歩き出す。



人気のないところへと。


誰もいないところへと。



オレの足は森の中へ。


どんどんどんどん、進んでく。



暗い暗い、森の中を。


誰の目にも、付かぬようにと。





―――我ながら、思ったよりは長く生きた方だと思う。


本当に、そう思う。



いくつもの病気を抱えて。いつ死んでもおかしくない身で。


よくもまぁ、今まで生き長らえたものだ。



けれどもう、終わりみたいだ。


警報が鳴っている。



自分の身体のことなんて、自分が一番よく分かってる。


自分がいつ死ぬかなんて、自分が一番よく分かってる。



どこが駄目で、どこがどうなってるか。


どこが動かなくて、どこが死んでるか。



何の病気が再発してて、どの器官がやられているか。


何の病気に掛かっているか、とか。治るか、治らないか、とか。



いつ、死ぬかとか。





オレはもう、死ぬ。






恐らく、夜明けまでに。


隼人に、戻ってくると言った時間までに。





歩き続けていると、やがて少し開けた場所に出た。


…この辺で良いか。


ここまで来れば、誰かと出くわす心配もなさそうだし。



オレは大きな木の幹に寄りかかる。


そのままずるずると、座り込む。



その拍子、いつもは感じない、なにか硬いものがあった。


なんだと思って手を伸ばしてみると、それは白衣のポケットの中にあった。



それは隼人が投げて寄越した煙草の箱だった。



重さの感覚がもう分からない身だったから、勝手に空かと思っていたけど。中にはまだ数本入ってた。おあつらえ向きにライターも。中のオイルが限りなくゼロだったがむしろ丁度良い。


今のオレにはぴったりだ。


オレが死ぬまでまだ少しばかり時間があるわけだし。


暫くこいつに付き合ってもらおう。



微かに震える指先で、煙草を咥える。ライターを手に持つ。


なかなか点かない火に悪戦苦闘しながら、(殺しの時ですら、こんなに苦労するのは稀なのだが、)なんとか火を点ける。



そして、一服。


―――ああ、なんだあいつ。


これはまた、懐かしいものを吸ってるじゃないか。


オレが昔、吸っていたのと同じ銘柄の煙草だった。





時間が過ぎる。オレの生きれる時間が消えてく。


真っ暗だった空が、徐々に徐々にゆっくりと白味を帯びていく。


寒さからか病でか、身体の感覚がもうほとんどない。



だんだんと眠くなる。寝たらたぶん。戻ってこれない。


だが、まぁ、それも良いだろう。


そのまま薄れる意識に身を委ねようとする。


目蓋を閉じようとする。



そう、したところで―――…何かが振動した。


…携帯電話だろうか。


そういえばポケットに入れっぱだった。


といっても、オレは取るつもりはない。放置だこんなの。そのうち切れるだろう。



携帯電話が振動している。己の存在を示すように。


携帯電話が振動している。オレが取るのを待つように。



…だから、取らねぇって。


取る力がもうないんだってば。



そのことが分かったのか、携帯電話の振動が止まる。留守番電話サービスのアナウンスが流れる。


つーか、一体誰だよ掛けてきたの。せっかくオレが一人で死のうってときに水差しやがって。


ピー、とコール音が流れる。相手が声を出す。



『あー…』



隼人だった。


どこか気だるそう…というか眠そうな声。もしかしたら寝てないのかも知れない。


なんでこんな時に、こいつから…と思ってから、思い出した。隼人に何時頃戻ると聞かれてなんと答えたかを。



確かオレは明け方頃と答えた。


オレは目の前を見た。


空の白味が増し、日が昇りかけていた。


明け方だった。



『シャマル…てめー、明け方には戻るっつったくせに……』



あー、うるせーうるせー。


オレがいい加減なことしか言わないってのは、お前が一番よく知ってるだろーが。


まだからかわれたりないのか?


つか、なんで電話してきたんだよ。いつもならしないくせに。


……………ああ、そうか。


煙草か。



『もうこっちのストック切れるんだぞ……どうしてくれるんだ、てめー』



知らねーよ買ってこねーつったろうがそもそもオレなんかを信用するお前が全面的に悪い。


ああ、全くもう。最悪だ。


オレは一人でいきたいのに。こいつが片端から邪魔をする。



『仕事は終わらなねぇし…』



愚痴かよ。



『さっさと煙草買って帰って来い』



―――。



『それまで起きてて、待ってるから』



その言葉を最後に、電話が切れる。辺りに静寂が訪れる。


………はぁ。


だから、帰ってこねぇって。


無理だって。


煙草ぐらい自分で買って来い。


もうガキじゃないんだから、オレのお守りも必要ないだろ?



待たなくて良い。


もう寝ろ。



―――オレも寝る。



目蓋を閉じれば、急速に力が失われていく。


指先から、煙草が落ちる。



…隼人。



お前はもう良い大人なんだから、自分で道を見つけられるだろ?


もうオレの真似なんかしなくても、生き方が分かるだろ?


もうオレがいなくても、生きていけるだろう?



じゃあな、隼人。



オレの腕の力が抜けて、地面に落ちて。


そうしてオレは、事切れた。





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最後の思い出は懐かしい煙草の味と、お前の声。


菊池ねーさんへ捧げさせて頂きます。