「一緒に、逃げよう」
開口一番に山本はそう告げた。汗だくになりながら。それでも獄寺を真っ直ぐに見て。
空を見上げた深海魚
いきなりそう言われた獄寺は山本を一瞥して。それから手に持っていた携帯電話をぱちんと折りたたんで。ポケットに仕舞った。
「…何の話だ?」
本当に分からないといった風に応える獄寺に山本は少なからず苛立ちを覚る。
「それよりもお前、仕事はどうしたんだ?」
現在山本と獄寺には別々に仕事が与えられていた。それは外での仕事で。場所はばらばら。だから二人が出会うはずがないのに。
獄寺は今の仕事がようやく終わりボンゴレに定期連絡していたのだ。そこに山本がいきなり来て。そしていきなり先ほどの台詞である。
「仕事なんてどうでもいいんだよ!!」
いつもの余裕のある山本とまるで違うのに獄寺はそれほど気にした様子はなくて。
まるで遠くを見るようにぼんやりと山本を見つめていた。
山本の様子がいつもと違うと言うならば獄寺の様子もいつもと違っている。
山本はそんな獄寺を見たくないとでも言うかのように獄寺の手首を思いっきり掴んで。外に連れ出そうとする。後ろから獄寺の声が聞こえる。
「山本…痛い」
けれど山本は止まらない。走る走る。何かから逃げるように走る。
「山本…痛いって…」
それでも山本は止まらない。走って走って。ようやく止まった時には元にいた場所からかなり離れていた。
全力疾走した山本は息継ぎすらきつそうで。それに付き合わされた獄寺は更にきつそうで。
それにようやく気付いた山本は少しバツの悪そうな顔をした。
「と、あ…悪い」
「そ…思う、なら……っ、手ぇ、離し…やがれ……っ」
山本は未だ獄寺の手首を強く握っていた。手を離すと獄寺の手首にはくっきりと山本の手形が赤く残っていた。
「ったく、一体何なんだよ野球馬鹿」
そう獄寺が非難がましく言うと山本は真面目な顔になって。
「だから、逃げようって」
「どこに」
「どこでもいい。マフィアと関係のない所なら」
その瞬間、獄寺の声が変わる。
「…なんで?」
「決まってるだろ! お前の…獄寺の為だよ!!」
「それこそなんでだ。訳分かんねぇ」
つまらないという風に突き放すような獄寺の口調に、けれど山本も応戦する。
「お前分かってるのかよ! あそこはお前を人間扱いしてない! 物扱いしてるんだぞ!!」
「だからどうした。あとオレの扱いは"物"じゃなくて"部品"だ」
「な…っ」
取替えが聞くからと笑う獄寺に山本は言葉を失う。
「何でお前笑っていられるんだよ…一体何が楽しくてマフィアなんかやってるんだよ!!」
そう怒鳴る山本を獄寺はただ見つめていて。
――確かに獄寺はボンゴレから酷い扱いを受けていた。それは彼がボンゴレに入った時からずっと続いていて。
(別に隠していたわけじゃねぇけど…一体どこで仕入れたんだか)
それは獄寺にしてみれば言うまでもない事程度の認識しかなかった。彼がボンゴレ10代目のツナの右腕になってからはそれもかなり治まった事だし。
どう説明するかなと獄寺は暫し考えて…
「…山本。オレはな、生まれた時からマフィア世界の中にいたんだ」
お前には想像付かないだろと笑う獄寺。その笑顔はとても儚くて。
「オレはマフィア以外の世界を知らなかった。一般の奴の生活なんて本や映画でしか見たことなかった」
お前とまるで逆だよなと笑う獄寺。その笑顔はとても切なくて。
「…で、オレは色々あって。ボンゴレに入るのにも結構苦労して。だからオレはそれだけで満足なんだけど…」
お前には分からないだろと笑う獄寺。その笑顔は見ててとても悲しくなる。
「山本」
獄寺は言う。
「オレとお前は価値観からしてまず違うんだ。そしてそれは決して混じりえない」
山本に言う。
「やっぱりお前はこっちに来るべきじゃなかったな」
それは遥か昔の事。獄寺だけは最後まで山本がマフィアになるのを反対していた。
「やっぱりお前は日向の方が似合ってるよ」
けほっと。獄寺は咳き込む。最初は軽く。けど徐々に酷く。
「獄寺、獄寺!!」
「…わり、すぐ、治まらせるから…」
そう言って獄寺は懐から一粒のカプセルを取り出して。そのまま飲み込んだ。
暫くして咳も収まり獄寺は血で汚れた口元を拭う。
「…山本。オレの身体は、もう、こんなんだから。お前とは行けない。この薬は特殊なものだから…ボンゴレにしかないから」
「……知ってる。オレはそれを知ったからお前と逃げようって言ってるんだ」
「あ…?」
山本は懐から大きな紙袋を取り出して。その中身は先ほど獄寺が飲んだカプセルで。
「ボンゴレからパクって来た」
笑いながらそう言う山本だけど。でも決してそれをするのは簡単なことではなくて。
「お前…よくやるよ……」
流石の獄寺も呆れ顔だ。これは悪戯で済む問題ではない。裏切り一歩手前だ。
「だから獄寺。逃げよう。もうお前を縛り付けるものなんてない」
山本はそう言ってはまたも獄寺の手首を掴む。今度は優しく。
獄寺は暫し考えたあと。困ったような笑みを浮かべて。
「どうせいやだっつっても、逃がす気なんてねーんだろ?」
「当然」
「…なら。抵抗はしねぇよ」
獄寺はそう言うと腕の力を抜いた。山本は獄寺を連れてまた走り出す。今度は獄寺にも着いて行けるようなペースで。
「…で、一体どこに行くんだ?」
「空港。まずはイタリアから出る。…獄寺、どこか行きたいところあるか?」
獄寺は一瞬考えて。けれどすぐに笑って応えた。それは二人の出会いの地。
「…日本」
「…そっか。そうだよな。やっぱりオレたちが帰る所といえばそこしかないか」
山本は笑った。絶対お前を護ってやると言って笑った。ボンゴレの使者が来ても全部追っ払ってやると笑った。
そんな山本に獄寺は無言で応えた。笑って応えた。
そして空港に行く途中。タクシーの中で獄寺はおもむろに山本に話しかけた。
「―――山本」
「ん? なんだ獄寺」
「…やっぱり。オレは行けない」
山本の目が驚いたように見開かれる。獄寺は気にせず続ける。
「日本に戻るのはお前だけだ」
「な、に…言ってんだよ、獄寺」
「――例えるならな。山本。お前は魚なんだ。飛び魚とか、カジキとか…元気に青い海で泳ぐ、魚だ。で、オレは深海魚」
「あ…? 深海…?」
「そ。アンコウとかな。暗くて冷たい海の底じゃないと生きることが出来ない、そんな魚」
重圧の関係で、決して上へは行けない、上の世界を知らない深海魚。
「上の魚は海底には行けない。同じように、海底の魚は上には行けない。同じ海にいるのに、決して同じ世界では生きられない」
我ながら言いえて妙だと獄寺は笑う。自嘲を含んだ笑みだった。
「だから。てめぇみてぇな上の魚がこっちに来るからして。既に間違ってたんだよ」
だから。帰れと。深海の魚は言った。
だから。戻れと。上の魚にそう言った。
間違いを正そうと、そう獄寺は言った。
「なに言ってんだよ獄寺! オレだけ戻れるわけねぇだろうが!!」
怒鳴る山本に獄寺は冷めた視線を返す。予想通り、と言った感じだった。獄寺は溜め息を吐く。
「そっか。…じゃあ言うけどさ。オレ、実はボンゴレから一つ任務受けてんだわ」
気が付けば獄寺の手には小さなピストルが握られていて。
「――不審因子の、抹殺指令」
それを。山本の額に押し付けて。
「―――っ」
山本が息を呑む。獄寺の目が冷たい。
「お前の動きなんて。ボンゴレにはお見通しってこった。…でも。見逃してやらないこともない」
「あ…?」
「誓え山本。今から日本に帰ると。そして二度とマフィアに関わらないと。そうすればお前は一般人に戻れる」
「…誓わなかったら?」
決まってんだろと額に押し付けられる圧力が強くなる。裏切り者には死。それは最初に教えられた事だ。
「―――どうする?」
「んな事、決まってるだろ。獄寺」
「………」
「お前なしの人生なんて考えられねぇよ」
「―――そっか」
獄寺の引き金を持つ手に力が篭る。
「何となくそう答えるとは思ってたがな。やっぱりお前馬鹿だな」
「ああ、オレは馬鹿さ」
獄寺はまた笑った。見ていて痛くなる笑みだった。
「山本――…じゃあな」
ぱしゅっと。そんな音がして。崩れ落ちる山本。
「………じゃ、後は頼んだぜ」
獄寺は運転手に言った。
「―――雲雀」
雲雀と。そう呼ばれた運転手がマスクを剥ぎ取る。黒髪の青年が現れた。
「…全く。よくやる」
「山本がか?」
「両方だよ、馬鹿」
酷ぇなぁといって。獄寺は手に持ってた銃を仕舞った。中身が麻酔の銃を。
「日本につき返してもきっと戻ってくるよ彼は。そういう男だからね」
「オレがいないと分かれば諦めるだろうさ…雲雀。ここでいい。降ろしてくれ」
「最後の仕事かい?」
「ああ」
きゅっと。タクシーは停止して。獄寺が出る。雲雀が窓を開けて獄寺を見上げる。
「…一体どんな取引したのやら。彼の抹殺指令が出たのは本当なんでしょ? なのに本当に彼を一般人に戻すなんて」
タネを教えてよ手品師さん。なんて素直じゃない子供のような事を言う雲雀に獄寺は思わず笑ってしまった。
「ぜってぇ、お前にだけは教えてやんね」
自分で見つけろと言う獄寺に雲雀は少しむっと来て。
グィッ
「――わっ」
獄寺のネクタイを思いっきり引っ張って。強引にキスをした。
「び、っくりしたー…何するんだよ雲雀!」
「彼の運び代。これくらいは貰わないと気が済まない」
きっぱりと言い切る雲雀に獄寺は呆れたような顔になって。
「はぁ…? こんなもんで駄賃になるのかねー…よく分かんねーわ」
まぁいいやと獄寺は笑って。雲雀と別れた。先ほども言った通り仕事に出かけるのだ。……最後の仕事に。
獄寺の身体は先ほど吐血したように既に危うい状態だった。薬で落ち着かせたがそれも一時凌ぎにしかならないほどで。
―――もう既に。助からないほどで。
これから行く所の戦いは決して勝ち目のあるものではない。…それこそ誰かが死ぬ気にでもならない限り。
だから獄寺はその役を自ら志願した。最後は自爆で。これはボンゴレに…いや、己の武器をダイナマイトにしたときから決まっていた事だ。
さぁ行こう。身体の痛みなんて気にならない。むしろ痛むという事はまだ自分が生きているという他ならぬ証であった。
後悔の念はない。自分の人生は充実していた。太く短く。結構な事じゃないか。
ボンゴレに入れた。10代目の右腕にもなれた。…山本を、堅気の世界に戻せた。
元々山本がマフィアになったのはそれはひとえに獄寺がそこにいたからで。だから獄寺がいなくなるのでは山本もまたボンゴレにいる意味はなくて。
獄寺にはどうしてそこまでして自分に執着するのが理解出来なかったようだが。
とにかく。山本を日本に返せた。上層部の情報を知りすぎている彼が無事に戻れるなんて。これは異例の事だった。
そしてそのあらゆるきっかけがどうやら自分にあるようで。獄寺にとってはなんとも複雑な気持ちでもあったが。
―――けれど。望みは叶えられた。これ以上何を望もう。
望めない…何も。もう十分すぎるから。
――さぁ、これから行くのは死に戦。けれど何処にも恐怖はない。
いざ参ろう。地より深い所にて、皆が来る日を待つ事にしよう。
――…ああ、けれどと獄寺は想う。一人だけもう会えない人物を。
…でも。それで良い。それが良い。彼には日向が似合ってるのだから。
獄寺はもう二度と逢えない彼と過ごした昔を思い出しては密かに笑って。そして太陽を見上げては眩しそうに目を細めた。
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じゃあな。山本。