彼女の目の前には闇が広がっていて。


彼女の世界は闇で出来ていた。


彼女の耳に音が入ることはなく。


彼女の世界に音が響いたことなどなかった。


それは彼女にとって当たり前過ぎて。


世界はそうであるのが常識で。


自分の他に誰かがいるなんて、その時まで考えたことすらなかった。





―――誰かが、触れた。





彼女は驚いた。


その、感覚に。


その、あたたかさに。


彼女は思った。





―――ああ、闇だ。闇が形を持って自分に触れてきたのだ。





だって、この世界には闇しかない。


当たり前過ぎて、身近過ぎて忘れてた。


ここには、この世界には、自分ともうひとり。闇がいたのだ。


おずおずと、彼女は闇を握り返す。手に感じる微かな感触。今までこんなの知らなかった。


何故だか、とても嬉しかった。


誰かが傍にいてくれることが。


けれど、不意にその闇は彼女の手をするりと抜けて。


また、いつものように何も感じなくなった。


「………」


胸の奥にぽっかりと生まれる喪失感。


腕を伸ばしても、空を掴むばかり。


世界は変わらない。暗いまま。無音のまま。


ああ、けれど。


指にはまだ残ってる。


あの、ぬくもりが。





どれほど時間が過ぎたのだろうか。


また、闇が触れてきた。


彼女は嬉しくなって顔を綻ばす。


腕を伸ばして、闇を掴んで。そのぬくもりを捕まえる。


そのあたたかさが愛おしくてたまらない。


けれど暫くすると、またぬくもりが彼女の手からするりと逃げる。


彼女が手を伸ばしても遅い。ぬくもりはあっという間に消え去ってしまう。


彼女は悲しくなる。


ぬくもりの時間と、今までの時間。


僅かな時間と、長い時間。


暫く、その繰り返し。彼女は闇のぬくもりをずっと待ち続けた。


ぬくもりが消え去るその瞬間が、一番悲しくて、切ない。


苦しくて、胸の奥が痛くて。何故だか強い孤独を覚える。


今までと何も変わらないのに。


闇はずっと、自分の傍にいてくれているのに。





どれほど、ぬくもりと再会し、そして別れただろう。


その時もあたたかみを感じ、幸せを感じていた。


…そして、いつものようにするりと抜けていく。


彼女は必死に手を伸ばす。そして口を開いた。



   ―――いかないで。



誰かの声が、聞こえたような気がした。


その誰かの声が自分の声だと、彼女は気付かない。


無音のはずの世界に、音が灯る。


空気が動く。世界が振動する。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして世界は、闇の外へと。