朝。
ツナは電子音が聞こえて目が覚めた。携帯の音。自分ではない。リボーンのだ。
リボーンが携帯を取る。電子音が消え、辺りに静寂が戻ってくる。
「なんだ」
短い声。抑揚のない声。いつ聞いても子供らしくない。
「そうか」
リボーンの声だけが響く。まったく、こんな朝早くに一体誰なのだろう。
「それだけか?」
ほら。リボーンも呆れている。みんなまだ寝ている時間だ。そんな時間に電話だなんて、誰だか知らないけれど非常識だ。
「………」
リボーンは黙って相手の声を聞いている。沈黙。静寂。けれど電話向こうの相手の声は聞こえない。
「そうか」
その言葉を最後に、リボーンは電話を仕舞った。話は終わったらしい。
「…誰から?」
ぼんやりとしながらツナは口を開いた。寝起きのせいか、声は少しかすれていた。
「獄寺からだ」
「獄寺くん?」
「ああ」
意外な人物からの電話だった。彼からこんな時間、ということはもしかしたら何か緊急の要件だったのかもしれない。
「なんだって?」
「ああ、目が見えなくなったそうだ」
ツナの息が止まった。
それからツナは、自分がどんな行動を取ったのかよく覚えていない。
気付いたときには服装は寝巻きから制服へ。手には鞄を持ち、そして獄寺のマンションの前に立っていた。
「獄寺くん!?」
「ああ、10代目」
部屋を尋ねると、一見いつもと変わらない獄寺がそこにいた。その声は務めていつも通り。平静そのもの。
「どうかなされたんですか? こんな朝早く」
「え? えっと、その…獄寺くん、目が……見えなくなったって、聞いて……」
獄寺の問いに、ツナはしどろもどろになりながら答える。
なんだ? まさかリボーンに騙されたか? 朝の話は嘘か?
それならそれで安心はするが、リボーンの奴許さない。こんな嘘付くなんて…
と、ツナがそう思っていると。
「そうなんですよ」
獄寺が困ったものだと言わんばかりに頷いた。
ツナは思わず獄寺を見直す。
「何も見えないんです」
獄寺は壁に手を付いて立っている。服装は学校が近いというのにTシャツにズボン。登校はしないのだろうか。当たり前か。目が見えないのだから。
「困ったものです」
うんうんと獄寺は頷く。そこに悲観の色はまったく見えない。自然に受け入れているようにも見えた。
「暫く学校は休みますね。10代目の護衛も出来そうにありませんし」
「う…うん」
ふと時計を見ればそろそろ学校に行かなければ遅刻してしまう時間だった。
「10代目。学校に行かなくて大丈夫ですか?」
「…うん。そろそろ時間だ。じゃあオレ、もう行くね。放課後また寄るから…」
「ええ。楽しみにしています」
ツナは獄寺のマンションを後にした。一人での登校。獄寺と知り合ってからはずっと二人で登校していた。
もう出来ないのだろうか。
獄寺は暫く休むと言っていた。暫く。どれくらいだろうか。そもそも治る見込みはあるのだろうか。
そういえば病院に行かなくていいのだろうか。ふつふつと疑問がツナの頭を過ぎる。
病院で調べてもらわねば分かるものも分からないし治るものも治らないだろう。
しかしそこらの病院で原因が分かるとも思えない。いきなり目が見えなくなるなど聞いたこともない。
…シャマルなら。
シャマルならなんとか出来るだろうか。そもそもこの話を知っているのだろうか。
駄目で元々だ。話すだけ話してみよう。
ツナは保健室に向かった。
「…なに?」
話を聞いたシャマルは怪訝な顔をした。当然だ。唐突な話。現実味のない話。
シャマルは暫し考えて、
「…行ってくる」
と一言残して保健室を出た。
これでいい。少なくともツナはそう思った。自分に出来るだけの最善の手は尽くしたはずだ。
ツナは教室に向かった。
教室のドアを開けると周りの目線が一瞬こちらを向く。そしてすぐに背けられる。
女子の中には少し落胆した様子の子もいた。ツナと一緒にいるはずの獄寺がいなかったからだろう。
ツナは一人で歩いて席に着く。獄寺の席は当然ながら空いたままだ。暫くそうなるだろう。
「よぉツナ。獄寺はどうした?」
と、話し掛けてきたのは朝練から戻ってきた山本だ。
「獄寺くんは……」
ツナはぽつりぽつりと話し出した。話を聞いて山本の目が見開かれる。冷や汗が垂れる。
「マジかよ…」
「うん…」
周りのざわめきがなんだか大きく、わざとらしく聞こえる。周りと自分たちの差が余りにも激しい。
「ま、まぁ、すぐ治るだろうぜ。シャマルのおっさんにも言ったんだろ? なら大丈夫さ」
「………そうだね」
すぐ治る。そうだといい。また昨日までの日常に戻れたならば、それはなんと素晴らしいことだろう。
「学校終わったら、二人で獄寺の見舞いにいこうぜ」
「うん」
そう約束をすると山本は席に着いた。続いて教師が教室に入ってくる。ホームルームが始まる。
教師の口から、獄寺が暫く休むということが告げられた。ざわめく教室。ツナはただ俯いていた。
教師は獄寺の休む理由を詳しくは告げなかった。獄寺が言わなかったのか教師が気を遣ってくれたのか。生徒の中で真相を知っているのはツナと山本だけだ。
ホームルームが終わり、授業が始まった。当然ながら授業の内容は全然入ってこなかった。
ああ、こんなことなら学校を休めばよかった。ずっと獄寺のところにいればよかった。そんなことを思った。
授業が終わり、ツナと山本は飛び出すように学校を出た。急いで獄寺のマンションへと向かう。
だが…
「…あれ?」
「なんだ?」
ドアは、開かなかった。インターホンを押しても反応はない。
見る限り明かりも付いてない。無人なのだろうか。でも一体、どこに?
「落ち着けよツナ。獄寺に電話してみたらどうだ?」
「そ、そうだね」
山本に言われてツナは携帯を取り出す。電話する。
電話しながら、果たして出るだろうかと少し不安になる。しかしそれは杞憂に終わり、数コールで繋がれた。
『10代目?』
「獄寺くん! 今どこにいるの?」
『ああ…すいません。実は今、病院にいまして…』
「病院?」
『ええ。なんかオレ、入院することになりまして』
入院。
考えてみればそうなるのは当然なのだろうが、ツナは目の前が少し暗くなったのを感じた。
獄寺に病院の場所と部屋の番号を聞いて山本と二人、病院に向かう。
病院に着き、病室に向かう。
ノックをして扉を開くとそこに獄寺はいた。
病室の中。白いベッドの上。
獄寺は上半身を起こし、本を開いていた。ページに指を這わせている。どうやら点字の本らしい。
獄寺の傍らにはリボーンがいた。帽子を真深く被り、顔を俯かせて獄寺に寄り掛かっている。
獄寺は俯かせていた顔を上げてドアの方を向いた。獄寺の目にツナと山本が映るが獄寺は何の反応も見せない。
見えていないのだ。
「ご…獄寺くん」
「あ、10代目。来てくださったんですか。先程はすいませんでした」
獄寺はぺこりと頭を下げた。ツナは慌てる。
「い、いや、オレの方こそ……」
「大丈夫か獄寺」
ツナの後ろから山本が話し掛ける。獄寺は眉間に皺を寄せた。
「チッ、なんだ、てめーも来たのかよ」
「来ちゃ悪いのかよ」
途端に不機嫌になった獄寺に、山本は笑う。
まるでいつも通りの光景だった。ここが病院であるのが不思議なくらいだった。
「あのあとシャマルが来て…ここに連れ込まれちまいました」
「シャマルが…」
「大袈裟ですよね」
獄寺は苦笑した。自分がここにいるのが場違いであるかのように。
しかし医者が、シャマルが下した判断だ。きっと正しいのだろう。そういえば一つ、聞いておかねばならないことがある。
「…目の、原因はわかったの?」
「いいえ」
獄寺は苦笑したまま答えた。
「分からないそうです。原因不明。色々検査させられたんですけどね」
「そう…」
思わず落胆する。そう簡単に分からないだろうと分かっていながらも期待せずにはいられなかった。
「まあまあ、すぐによくなるって!」
山本が元気にそう言った。
そうなればいいと、本気でそう思った。
しかし。
「ツナ」
数日後、リボーンが口を開いた。
「獄寺の耳が聞こえなくなったぞ」
ツナは氷を飲み込んだかのような気分になった。
「獄寺くん!!」
「………」
ツナは病院に駆け込み、獄寺の病室を開けた。
獄寺は変わらずそこにいた。
部屋の中はいつもと何ら変わらない。白い床。白い壁。白いベッド。上半身を起こし、点字の本に指を這わせる獄寺。それに寄りかかる黒い小さな影一つ。
変わったのはただひとつ。
声を掛けても、獄寺がこちらを見ないということ。
「獄寺くん…」
ツナは弱々しく呟き、獄寺に近付く。
獄寺の腕に触れる。それで獄寺はようやっと来訪者に気付いたようだった。
「………」
獄寺はツナの方を向き、じっと何かを考えている。腕に触れたのが誰なのかを考えているようだ。
「獄寺くん」
ツナは獄寺の手を握る。自分の手がかたかたと震えていた。
「…10代目?」
「うん…」
頷いた声が聞こえた訳ではないだろうが、獄寺はツナであると理解したようだ。
「今日も来てくださったんですね」
「うん…」
「嬉しいです」
「………」
ツナはとうとう泣き出した。聞こえないと分かっていながらも、声を殺して泣いた。
と、背後のドアが大きな音を立てて開かれた。
「隼人!!」
現れたのはビアンキだった。息を切らしながらもなおも走ってこちらへと向かってくる。
「どきなさい!」
「うわ!」
ツナはビアンキにはじき飛ばされた。ツナと獄寺の手が離れ、代わりに獄寺とビアンキの手が繋がれる。
「隼人、あなた目に続き耳が……大丈夫なの!?」
「……姉貴?」
「ええ! 私よ!!」
ビアンキは獄寺を抱きしめる。目には涙。獄寺は固まっている。どうしたものかと思っているらしい。
「あー…なんだ、オレは大丈夫だから…」
「まったく、医者は何をしているのよ!! 隼人が、隼人が……」
ビアンキは泣き出した。水滴が獄寺の頬に落ち、獄寺はビアンキが泣いていることに気付いたらしい。困った顔をする。
「姉貴…落ち着け」
「うう、隼人、隼人……」
泣きじゃくるビアンキ。ツナはなんだかここにいてはいけない気がして、病室を出た。
帰り道。
長い影を作りながら、ツナは帰路へと付く。頭の中は獄寺のことばかりだ。
突然、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり。
…事態は悪化してきている。これ以上悪くならないだろうか。心配だ。
ツナは重いため息を吐いた。
そしてその心配は杞憂に終わらなかった。
「ツナ」
リボーンが口を開く。
やめてよ。聞きたくない。
聞きたくないのに、リボーンは言葉を紡ぐ。
「獄寺の声が出なくなったぞ」
ツナは辛くなった。
ツナがいつものように獄寺の見舞いに行くと、珍しい客人が来ていた。
「…雲雀さん?」
「やあ」
ツナは驚いた。一番場違いな人がいる。そう思った。
「この子。最近見掛けないと思ったら、こんなところにいたんだね」
「はい…」
獄寺はいつものように点字の本を読んでいる。もしかしたらこの場に自分しかいないと思っているかもしれない。
雲雀はベッド脇に積まれている点字の本を一冊取って適当にページを開き指を這わせていた。
ツナはいつ雲雀が獄寺を殴り出さないかとはらはらしていたが、雲雀は大人しかった。飽きたのか点字の本を元の場所に戻す。
雲雀はツナの視線にツナの考えを感じたのか、ため息混じりに答えた。
「…別に。群れてないし、校則違反をしているわけでもないし、咬み付いてくるわけでもないし。遊んであげる理由がないよ」
「そうですか…」
ツナはほっと息を吐いた。これ以上獄寺の身体に負担は掛けたくない。
「いつもこれくらい大人しかったらいいんだけどね。彼」
横目で獄寺を見ながら雲雀は言う。しかしツナはムッとする。
こんな獄寺のどこがいいというのだ。目が見えず、耳が聞こえず、口が聞けず。病院に押し込められて。
ツナの目線に気付いたのか、雲雀が面倒臭そうに口を開いた。
「嘘だよ、嘘。大人しいのがいいのは本当だけど、ここまで大人しいとね。調子が狂うよ」
「………」
雲雀は欠伸を一つして、席を立った。
「じゃあね」
そう一言残して、雲雀は退室した。ツナは息を吐いて、獄寺のところに向かう。
「獄寺くん」
獄寺の腕に触れる。それで獄寺はやっと自分以外に誰かいることに気付いたらしい。こちらを見遣る。
「―――」
ぱくぱくと、獄寺は口を動かす。声は出ない。ツナは悲しくなる。
どんどん状況が悪くなっている。
治って欲しい。早く、一刻も早く治ってほしい。
せめて、これ以上は悪くならないでほしい。
ツナは切にそう願った。
だけど。
「ツナ」
リボーンの口が開く。
その表情はいつもどおりだ。無表情。感情の見えない顔。
「獄寺の腕が動かなくなったぞ」
いっそのこと自分の耳が聞こえなくなればいいのに。
ツナはそう思った。
学校に向かうと、獄寺は学校を辞めたと、教師の口から告げられた。
ツナが病室に向かっていると、向こう側からクロームが歩いて来ているのが見えた。
「クローム」
「ボス…」
「獄寺くんのお見舞いに来てくれたの?」
「………」
「ありがとう」
クロームの目は真っ赤だった。泣いてくれたのだろう。獄寺のために。
「ボス…」
「うん?」
「私…何も出来ないの。何の力にもなれないの。………無力なの」
「………」
無力。
それは自分にも言えることだ。何も出来ない。ただお見舞いに行くことしか。触れることしか。それ以外に出来ることが何もないなんて。
クロームと別れて病室に向かう。獄寺はいつものようにそこにいた。
ただ、点字の本を、もう持っていなかった。
ただ、ベッドの上で身を起こし、ぼんやりとしていた。
他に何も出来ないのだ。
「獄寺くん」
「………」
呼び掛けても、当然ながら返答はない。こんなに近くにいるのに、獄寺には分からないのだ。
「獄寺くん」
「………?」
獄寺に触れる。やっと獄寺は訪問者に気付く。こちらを見る。
そして微笑む。それが獄寺に出来る、ただひとつの歓迎方法。
「獄寺くん…」
ツナは獄寺を抱きしめて、泣いた。いつだったかビアンキがそうしたように。
獄寺は困ったような顔をした。
「ツナ」
リボーンが口を開く。
やめて。やめて。聞きたくない。
お前が口を開くとろくなことが起きない。お願いだから黙っていてくれ。
そう願うのに、なんて無情なんだろう。
「獄寺の身体が動かなくなったぞ」
ツナはどうすればいいのかわからない。
病室のドアをノックする。コンコン。コンコン。
中から反応はない。いつものことだ。ツナはドアを開ける。
部屋の中には獄寺がいた。当たり前だ。ここは獄寺の病室。
獄寺はもう、ベッドの上で身を起こしてはいなかった。
横になっていた。一見するとまるで眠っているように見える。いや、もしかしたら本当に眠っているのかもしれない。
腕からはチューブが生えていた。点滴を受けている。もう食べることも出来ないのだろうか?
「獄寺くん」
ツナはそう声を掛け、枕元の椅子に座る。獄寺に触れる。
すると獄寺の目がうっすらと開き、こちらを見た。そして微笑む。
それだけだ。それだけ。他に何もしない。何も出来ない。
目の前が暗くなる。
どうしてこうなってしまったのだろう。一体何がいけなかったのだろう。
少し前まではこうじゃなかった。どこにでもある日常を送っていた。
朝。迎えに来てくれて。そのまま一緒に登校して。授業を受けて。お昼を食べて。
授業が終わったら一緒に帰って。家で一緒に遊んだり。勉強を見てもらったり。
楽しかった。
幸せだった。
ずっと続くんだと、信じていた。
なのに、あっさりと壊れた。
獄寺の手を握る手が震える。
獄寺はただ笑っていた。
そして。
「ツナ」
やめろ。
お前は口を開くな。
聞きたくない。
頼むから。
お願いだから、何も言わないで。
「獄寺が死んだぞ」
リボーンはいつものように表情を変えず言い放った。
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どうしてお前はそんなに冷静なんだ?
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