そいつに会ったのは…月の綺麗な夜だった。 深夜…というよりも朝方という表現の方が近い時間。仕事帰りにそこを通りかかって。その場所に、彼はいた。 「今晩は。」 月の美しい夜の、その静謐さに似合わない、不自然なほど明るい笑みを浮かべて。 「こんな時間にこんなところで会うなんて、奇遇ですね。」 相変わらずの笑みを浮かべて、彼は…俺の名を呼んだ。 「リボーンさん。」 トンと、腰掛けていた階段から飛び降りて、彼は俺との距離を詰めてくる。 「今宵は遅いお帰りですね。」 「ああ。…お前こそこんな遅くにどうした。」 普段ならばまだまだ休息の時間帯だ。少なくとも外に出て、夜を眺める時ではない。 けれど彼は…そんな問いにただ笑ってみせるだけで。そこに、常の彼にはない違和感が潜んでいる気がして… 「お前は誰だ?」 気付いた時には、疑問を口に乗せていた。 「俺ですか?」 それにすら感じるところがないのか、彼は…何故だか嬉しそうに。そして楽しそうに笑ってみせる。 「俺は獄寺隼人ですよ?」 見てわかりませんか?と、また一歩縮められた距離に。 「…そうか。」 どんなに違和感をはらんでいても、本人がそうだと言うのならそうなのだろう。その瞳は、嘘をついているようには見えないし。話は終わったとばかりに立ち去ろうとする俺に…すがるように伸ばされた腕。 「ねぇリボーンさん?」 背後からしなだれかかるようにして、耳元に囁かれた名前。 「キス…して下さい。」 伏し目がちの瞳で誘うように。それは常の彼には重ならない。けれどそれすらも、今、目の前にいる男の存在を否定するほどの違和感ではなくて。誘われるように、瞳を閉じている獄寺に、己のそれを押し付ける。 「ん、っふ。」 幾度となく繰り返す口付けに…次第に辺りに響きだす、水気を含んだ音。それでも止まる事なく続けられるそれに合わせるように、更に深く口内を貪れば、少しだけ歪められる、端正な顔。それに魅入られるように、時間さえ忘れて互いの熱を確かめた。それを中断させたのは…ゆるく肩を押した、獄寺の手。 「もう良いのか?」 「本当はもっとあなたと触れ合っていたいのですが…時間のようです。」 少し目を伏せた横顔はひどく儚げなのに、真っ直ぐに自分を見つめた瞳には、どこか悪戯な色が浮かんでいて。どちらが本当の彼なのかと考える暇もなく… 「今度逢うときは、最後までして下さいね。」 冗談のように軽い口調でそう言った途端、倒れ込んで来た体。 あれは夢だ。 あんな事、現実のはずがない。だいたい恐れ多いだろ?俺とリボーンさんが…なんて。 「それにしても何だってあんな夢?」 普通に考えたってあるはずがないのに、どうしてあんなシーンを夢に見たのだろう?夢は願望の表れ…と。言うけれど。そんな事を思いながら歩いていたら、目の前に、あの人の姿があって。俺は必死で、冷静であろうとする。昨夜のあれが何であれ、リボーンさんが取り乱す事などないと知っているから、自分だけが慌てる姿など見られたくなくて。 「おはようございます、リボーンさん。」 「ああ。」 そっけないいつも通りの彼の態度に安心する。たとえ何があったとしても、この人の態度が変わらないのなら構わない。でも本当は知ってる。昨夜の事が現実のはずがない事を。何故ならリボーンさんは中立の立場にある人だから、誰かに対して、特別な感情を抱く事などありえない。でもそれなら尚更、何故あんな夢を見たのか。あんな大それた…リボーンさんと永遠に続くかのような、キスをする夢…なんて。 いつもと変わらない日が過ぎ、いつもと変わらない夜が更けて。けれど…訪れようとする夜明けは、いつも通りではなかった。 …コンコン。 軽いノックの音と共に、するりと室内に入り込んで来たのは…らしくない、獄寺。 「こんばんは。」 「…ああ。」 いつかと似た遣り取り。そして、いつかと同じ、この場の雰囲気に似つかわしくない、笑顔。 「いつもこんな時間まで起きていらっしゃるんですか?」 「そんな事を聞くために、こんな時間に人の部屋を訪れたのか?お前は気遣いの出来る男と思っていたが、俺の買いかぶりだったか?」 殊更冷たい口調で突き放せば、困ったように逸らされる視線。 「…あなたに、会いたかったんです。」 「昼間も会った。」 思いつめたように返された言葉に、違和感を覚える。それが何なのか分からないまま返した言葉に、自分自身で納得する。 「…ああ、そうですね。でも、俺は、あなたのプライベートが欲しいんです。」 「…獄寺。」 牽制の意味を込めて吐き出したその名に、不自然なほどの笑顔が崩れて…現れたのは、明らかな否定の意思。 「それ、止めて下さい。俺、あいつと一緒にされるのなんて、我慢できません。」 自分を表すはずの名を、他人のもののように否定した。でもそれでも、ここにいるのは間違いなく“獄寺隼人”なのだ。 「分かった。ならお前の事は“隼人”と呼ぶ。それでいいな?」 簡潔にそうまとめれば、獄寺…いや、隼人は、満足そうに頷いて、俺の肩に触れて来た。 「……何の、つもりだ?」 「昨夜の続きを…。」 当然の事のようにそう言って、隼人は…ひどく妖艶に微笑んだ。 「あなたが…欲しいんです。」 熱に浮かされるようにつぶやいて…触れ合わされた…唇。深く浅く繰り返して…そうこうしているうちに、きっちり着込んだスーツに伸びる手。その意図は明確で、けれどそれは…特別を持たない自分に、許される行為ではない。 「…駄目、ですか?」 明らかな拒否に、少し残念そうに細められた瞳。その代わりのように、更に深くなる口付け。境界線を挟んだまま続けられるそれは、結局、空が白み始める頃まで続き、何がきっかけだったのか、隼人は自ら、抱き締める手を解き、部屋を出て行った。 「…ねぇ、リボーンさん。明日も来て…いいですか?」 なごり惜しそうに、そんな言葉だけを残して。 …おかしい。 おかしすぎる。何が…と、問われて、人に話す事なんて出来ないけれど、夜毎訪れるあの夢は…絶対におかしい。夢魔が見せている…いや、淫魔…か?…が、見せている夢だと言うなら納得できる。 でも、それが自分の欲求なのだとしたら…何故、相手があの人なのか?リボーンさんの事は尊敬している。でも、それだけだ。欲の対象としてなんて、見た事もないと言うのに…どうして自分は夢の中であの人にせまっているのだろう。考えれば考えるほど、自分が信じられなくて、更にリボーンさんには申し訳ないやら、恥ずかしいやらで…最近ろくに、あの人の顔を見ていない。 何かの病気か…と、考えてシャマルに相談しようかとも思った。でも、あのスケベ顔で「隼人坊ちゃんも大人になったねぇ…」なんて、馬鹿にしたように言われるのは、考えるだけで我慢ならない。それなら、まだ、リボーンさんに相談を持ちかける方がマシな気がする。…って、いやいや、それはないだろう。だいたい、まともに話せるはずがない。 …はぁ… 思わず零れ落ちる溜息。こんなの、自分らしくない。 こんな感情を持て余すくらいなら、何を考えるでもなくただ、夜空を見上げ続けるあの夢を見る方がまだましだ。あの夢なら、こんな風に思い悩むことなどない。それなのに、夜毎訪れる夢は、恐ろしいほどのリアルさで俺を苛む。だいたい何が問題かって、夢の中の自分が抱いている感情。 夜と朝の間と言える時間にリボーンさんの部屋を訪ねる彼は…ひどく楽しそうにキスを迫って、そうして、空が白む頃になると、必ずと言って良いほどその場を後にする。毎晩、翌日の来訪を楽しみにしながら…。 …ふうぅ… 零れる溜息を止める術はない。あの夢が、終わらない限り。 そんな事を思いながら、気持ちを切り替えるために、内ポケットに伸ばした手。吸い慣れたそれに手が触れるより先に、鳴り出した携帯電話。発信者を確認すると同時に、繋がったその機械が伝えて来る声は、予想に違わず、敬愛する10代目のもので。 『すぐ俺の部屋に来てもらえる?』 そんな言葉だけを残して、それは冷たい機械へと変わる。 コンコン… ノックの音に反応するように中から開かれた扉。それに恐縮するより先に、目に入れてしまった人物に、驚愕する。 「いらっしゃい。分かってると思うけど…仕事。こいつと…組んでもらえるかな?」 笑顔の10代目に、返す言葉が見つからない。 「どうかした…獄寺…君?」 戸惑うようにそう尋ねられれば、笑うことしかできはしない。 「…いえ…。10代目お一人かと思ったので、少し驚いただけです。」 頭の中は疑問符で一杯なのに、ぎこちなくそう返す自分の言葉は、ありえないくらい不自然に違いない。でも、他に言葉が出ない。 「なら良いんだけど。頼まれてくれる?」 「もちろんですっ!」 …ああ、パブロフの犬よろしく、答えている自分が情けない。こんな気持ちのままで、この相手と組める自信なんてないと言うのに…。 「行くぞ、獄寺。」 当たり前のようにそう言う、黒いスーツに身を包んだ、少年。颯爽と風を切って歩く姿は、彼を年齢よりも大人びて見せる。 「では、行って参ります。」 10代目に挨拶を済ませて、彼の後を追う為に、その部屋を後にする。少しだけ開いてしまった距離を詰めるように小走りに彼の後ろを歩く自分の思考は、他人には見せられないくらいに、バラバラだ。たかだか夢で、こんなに振り回されるなんてどうかしている。どうにかしなけば、どうにか…。 「聞いているのか?」 沈み込んだ思考を引き上げるようにかけられた声に驚く。上げた視線の先にある彼の顔は…予想以上に近い位置で。 「うおっ!」 思わず飛びのいた俺に、リボーンさんが苦笑する。その口許に目がいってしまって、吸い寄せられそうになる視線を慌てて引き剥がす。どうしたら良い?こんなの…絶対に不自然だ。 「すっ、すいませんっ!」 必死で謝る自分に、吐き出される溜息。そんな彼の態度に、跳ね上がる鼓動。 「車を出してもらおうと思ったんだがな。今のお前に任せると、現地に着く前に死にそうだ。」 踵を返して振り向きもしない背中。 「待って下さい、リボーンさんっ!」 必死に追いすがる俺になんてお構いなしに、緩められることなどない歩調。いつも通りの彼の態度に、冷静にならなければと暗示をかける。それでどうにかなるものだなんて、到底思えはしなかったけれど。 明らかに態度のおかしい獄寺には、注意を向けないように意識した。自分が何かしらの反応を返せば、より一層彼を混乱させると感じたから。だが、死と隣り合わせの任務に赴くには、彼の態度は不安定過ぎた。 「獄寺。」 声をかければ、不自然なくらいに揺れる肩。 「…はい。」 それでも冷静であろうとしている彼の声は落ち着いた響きを保っていたから…大丈夫なのだと思った。いや、思い込もうとしただけなのかもしれない。そうしなければ、彼も自分も無事では済まないから。 「仕事に私情は挟むな。…死ぬぞ?」 低い声でつぶやけば、ただ神妙な面持ちで頷いてみせる。それは、間違いなくファミリーの一翼を担う者の顔だったから、信じて良いと思った。それなのに… 程なくしてたどり着いた目的地。そこは、最近、ボンゴレにちょっかいをかけてきているファミリーのアジト。事を荒立てる事はできないから、秘密裏に…。 お互いに辺りを警戒しつつ車から降りて、音もなく、建物に忍び込む。迅速に事を運ぶ為、運悪く出会ってしまった人間には、声を上げさせることもなく、銃声で静寂を乱す事もない、ただ静かな死を与える。そうして、無駄な時間はかけず、最短のルートをたどって、このファミリーのボスがいると思われる部屋を目指す。 駆け抜ける廊下。登りつめて行く階段。そのどこでも、獄寺は危惧したような不安定さを見せはしなかった。これならば大丈夫だろうと、後ろを気にする事なくたどりついた扉。この向こうに…最も、潰さなければいけない相手がいる。一瞬だけ息を呑んで… 開け放った扉。そこには、脂ぎった中年男と、就学して間がないと思われる歳の…少年。事態の急変にすら気付けないのか、突然の訪問者の気配すら無視して、続けられているその営み。 「邪魔を…。」 言いかけて、振り返った男の表情が凍りつく。体勢が変わった事により、男に隠れて見えなかった少年の表情があらわになる。熱に浮かされたように潤んだ少年の…驚きに見開かれた瞳が、どこかでフラッシュバックを起こす。 「…知っている。」 思わずもれたつぶやき。こんな光景を…遠い昔、自分は…どこかで見た。 力のない細く小さな腕を押さえつける男の手。必死で抗って。だけど、幼い子供の体では、それにも限界があって。「嫌だ」と叫んでも…誰も助けてなんかくれない。 だいたいあの子供は、被害者の振りをした共犯者だ。「嫌だ、助けて。」と、相手の同情をひきながら、受け入れられるはずのない場所に相手の肉を迎え入れて、与えられる快楽に酔いしれているのだ。そのくせ他人には、自分は全くの被害者だと言う顔をして見せる。 「あれは…何よりも罪深い偽善者だ。」 …アンナ者ハ消シテシマエバ、良イ… あんな、自分の意思すら全うできない、意味のない物は…。 「…う、あ。ああぁぁぁぁ!!!」 ドゥ…ン 叫びにまぎれるように、響いた銃声。放たれたそれは、おびえた表情をさらす子供の、裸の胸に吸い込まれる。噴出す血に魅かれるように、さらにひかれた引き金は、すでに事切れているだろう少年の、頭蓋を打ち砕く。 「おいっ!」 かけれられた声にも止まることのない暴挙は…事態の急変に脱兎のごとく逃げ出そうとしていた男すらも、屍に変える。それでも、降ろされることのない銃口は…撃ちつくせるだけの弾を吐き出して、最後に、それを手にした男の、こめかみに押し当てられる。 「獄寺、やめろ!」 強い力で、引かれた腕に、振り返る。そこにいるのは、よく見知った人。全身を黒で固めた、“悪魔”とも“死の天使”とも呼ばれる…殺し屋。 「…リ、ボーン…さん…?」 掠れたつぶやきを残して、重力に引かれてゆく体。とっさに抱きとめたその体は…微かに、震えていた。 その始まりは、ピアノに起因しているのだろう。毛色の違う、妾の子供。そんな曖昧な立場のあいつにピアノの演奏を任せた父親の思惑など、奴が知るはずもなかった。 ただあいつは、父に…いや、誰かに、必要だと言って欲しかったのだ。だが父親は…自分の子供を人だとは思っていなかったのだろう。いや、人だと言う認識くらいはあったかもしれない。だが、それ以前に、彼にとって自分の血をひいたはずの子供達は、商品でしかなかった。それなのに、あまりに子供だったあいつは、それが父のためになるのだと、信じて疑わなかった。 父の望むまま、月に一度のピアノの演奏会をこなし、そのたびに、客をとった。はじめのうちは、一夜に一人一プレイ。何も知らない子供の体は、一月ごとに己の望まないものへと変えられた。はじめのうちは泣き叫んで暴れていたその行為も、いつしか当たり前のものへと変わっていった。父を助ける為なのだと信じて、男色趣味の男達に、文句も言わずに奴は、己の体を差し出した。受け入れられるはずもない場所に、受け入れられるはずのないものを受け入れて、その後に待っているのは、嫌悪感からくる、吐き気。 それでもあいつは…父の言いなりだった。信じていたはずの父の口からこぼれた、その言葉を聞くまでは。 『あれは、いい商品だ。文句も言わず、男達に尽くす。おかげで、こんなに…。』 汚らしい笑みを浮かべて、子供に稼がせた金を横目に、酒をあおる父の言葉には、あいつの名前すら…ありはしなかった。欺かれていたのだと…その時、初めて奴は知ったのだろう。いや違う。気付く事ができなかったあいつが馬鹿なのだ。それに気付いた時から、奴の世界は変わった。 月に幾度かのピアノの演奏会。月に何人かの夜の客。父の思惑に気付いた時から、元から苦痛だったそれは、精神も体も壊しかねない脅威になった。それでも父親は…己の子供を、商売道具にすることをやめようとはしなかった。そうして半ば壊れたあいつを救ったのは、腹違いの姉と、その当時、城の専属医だった男。 『隼人のお客様は私が満足させるわ。』 そう言って彼女は、今までの二倍の客の相手をして見せた。下衆な父は、それをまともな状態でないあいつに話して聞かせた。 『ビアンキは、お前のために頑張っているんだよ?』 正妻との間の子供までを商売道具に使って、それに罪悪感を抱かない父。その事の方が、余程信じられないと、奴はかすんだ頭で考えた。そして、自分の身代わりを申し出た姉に会いたいとも…。 『姉さまに、会わせて…?』 純粋な子供の言葉に返されたのは… 『姉さまに会わせたら、また前のようにできるかい?』 とても子を持つ父親の発言とは思えないもの。彼のその一言で、壊れかけていた奴の世界は完全に崩れ落ちてしまった。 『あんたの望みは叶えてやる。だから二度と…俺の前に姿見せるんじゃねぇ。』 急に口調を変えた子供の変化になど、金に目のくらんだ男は、気付く事もできなかっただろう。それでもその迫力に気圧されるようにうなずいた男に、あいつは…侮蔑もあらわな表情で笑ってみせた。 『じゃあな。』 振り返る事もなくそう告げて、奴が向ったのは…自分の身代わりを買って出た姉の所。先程までとは、うって変わった、泣き出しそうな表情で。 そんな一件を経て、何かが変わったとしたら…あいつが笑わなくなった事。そして、ピアノを弾かなくなった代わりのように、昼夜を問わず、客をとることに専念し始めた。 それこそ…自分を壊してしまおうとしているかのような無謀な情事に、城の専属医だった男は、あいつに…武器の扱いを教えた。それは、浮かび上がる事のできない深い沼のような日常の中で、唯一の希望。 そんなものでもなければ、壊れてしまうくらいに、脆い地盤の上にあいつは立っていて、それほど面倒見など良くないはずの専属医にとって、その危うさは、見過ごす事のできないものだったのだろう。そうして伸べられた手は…それほど時を置かず、子供を庇護すべき立場の人間の手で、断ち切られた。専属医に感化されるように、外の世界に興味を持ち始めたあいつを、自分の手元につなぎとめておくために、邪魔になった専属医に破格の金を提示して、城から追い出した。 男は、それに逆らう事をしなかった。それでも、医者である男ににとってあいつは…唯一の心残りだったのだろう。だから彼は、城を後にする日、奴に薬を差し出した。それは、強制的に快楽を得るためのもの。客としてやってくる男達に体を開く事に嫌悪感を感じながら、気持ちとは裏腹に、体が感じている悦び。アンバランスなそれを、せめて薬のせいにしてしまえるようにと。 『すまない。』 半端にしか手を差し伸べる事ができなかった専属医の口から出た、しぼり出すような謝罪の言葉に、強がりなあいつは笑っていた。救いを求める事もできずに、ただ…。もしもあの時に、あいつが何かを望んでいれば、あるいはこんな事にはならなかったのかもしれない。 それでも、あの時のあいつは…捨てられたとわかる相手に…縋ることなどできなかったのだ。ぼろぼろに崩れ落ちたプライドを、拾い集めようと必死だったあいつは…結局自分の中に、全てを隠した。精神に破綻をきたすほど追い詰められながらも。 『いつかここを出られたら…その時は迎えに来て?』 来るはずがないと知っていて、それでもあいつが口にした言葉。その言葉に、専属医はいつもしていたように奴の髪に指を通して笑う。肯定も否定もしないままに…。 そうしてあいつは、縋る者のいなくなった城の中で、更に数年の時を重ねた。専属医が城を去った時には、奴の腹違いの姉は、すでに城を出ていたから、救う者もいない場所で、あいつはただ…一つだけの望みを繰り返した。 『いつかここを出て自由になる。そうしたら…自分の足で探すのだ。自分が、命を懸けて尽くせる人を。』 呪文のようにつぶやくその言葉だけが、壊れきったあいつの…たった一つの支えだったのに、それすらもが、結局奴を裏切った。 父の手を逃れて、ようやく手にした自由。そこで生きて行くにはあいつは…幼く、無知だった。それでも、己のたった一つの望みを叶えるために必死だったあいつを、あいつが仲間と信じていた人間達が裏切った。 変わらなかったのだ、結局。城にいた頃と何もかも全てが。 自身が望まなかった城での生活も、毛色の違いを際立たせる事になりこそすれ、その場所に奴を同化させる要因になりはしなかった。力のない、育ちが良いだけの子供など、下層で生きる者達の欲望を満たす道具くらいにしかならなかった。違いがあるとすれば、その行為が暴力であるか性行為であるかの差だけだろう。その場所であいつが死なずに済んだのは、明らかに外の血が混じっていると知れるその容姿と、城で叩き込まれた知識のおかげ。 それから…専属医が与えた外で生きるための力。それでも、奴が弱者である事に変わりはなく、生き残るための小さな抵抗が、結局は、自身の元へと帰ってきた。強者が“欲”を満たすための一方的な手段として。その場所ではルールのようなそれが、“外に出れば自由になれる”と信じていたあいつにとっては、手酷い裏切りだった。ほんの一瞬前まで隣で笑っていた人間が、ふいうちのようにキスをせまって、それを合図にするように始まる、狂った宴。生贄の羊はただ無理矢理に組み敷かれて、一夜のうちに何人と把握できない男達に抱かれる。 ただでさえ壊れきった精神は…拾い集める事ができないくらいバラバラになって、無理を強いられた体は…日を追うごとに弱っていった。それでもあいつは、生きる事をやめようとはしなかったし、己の望みを諦める事もしなかった。何一つ救いのないその場所で、あいつはただ未来だけを見つめていた。 そうしてあいつは、逃げたのだ。救う者のない深い沼の底から。 そこに置き去りにされたのは、奴が忘れてしまいたかった記憶。己が望むように生きるためにあいつは…いらないソレを、俺に押し付けて、光の中へと去って行った。自分だけが、ひどくきれいな人間のような顔をして。そうして、からっぽな自分の中に残されたのは、おぞましい記憶だけ。どれだけ叫んで、助けを求めても…誰一人、手を伸べる者もない、どこまでも続く…闇。これから先…ずっとそんな物しか持てないと思っていたから、彼に出会えた事が嬉しかった。 深夜というよりも、朝方に近い時間に、血のにおいを纏わせて佇んでいた、全身を黒で固めた殺し屋。 「…リボーン、さん…」 己のつぶやきに、浮上する意識。あれは、何だろう?ひどく長い夢だった。 姉貴、シャマル、親父。それから…銀の髪の子供。あの子供は…一体、誰?男に組み敷かれて、あられもない声を上げていた。手荒な行為を嫌悪しつつ、与えられるそれに、悦びを感じていた。あの…偽善者は…誰?知らない。あんな光景…知るはずがない。なのに何で、あの子供が感じている恐怖も嫌悪も…快楽すらも…知っていると思うのだろう。 「ア…ア…アアアアァァァ…」 嫌ダ…知ラナイ。見タクナイ。アンナ、汚イ。アンナモノ…知ラナイ… 「獄寺っ!!」 室内から聞こえた、血を吐くような叫びに慌てて飛び込んだその場所には、ベッドから上半身を乗り出すような不自然な格好で視線を上げた獄寺の姿がある。 「…リボーンさん…」 どこか思いつめたような、切ない声。自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳に…予感があった。 「俺を…抱いて下さい。」 消え入りそうな声でつぶやく彼は、自分の良く知る“獄寺”ではなく、真夜中というには遅く、早朝というには早い時間に出会った“隼人”なのだろう。 「…目茶苦茶に…して下さい。」 露を溜めた緑の瞳。けれど、どちらの“彼”も、泣く事を知らないのだ。 「壊れるくらい激しく。そうすれば…全て忘れられる。だから…」 続く言葉を聞きたくなくて、奪うように口付ければ、驚いた様に見開かれる瞳。眦に光る零れ落ちそうな滴を指に絡めて、その勢いのままに薄く開かれた唇に、舌を差し入れる。そうして性急に求めれば、隼人は、戸惑うように瞳を伏せる。 「…望んだのは、お前だ。」 反らされた視線に苛立ちを覚えて、冷たく言い放てば、途方に暮れたように上げられる視線。そこには、明らかな怯えの色が浮かんでいて。 「…俺っ…そんなつもりじゃ…。リボーンさんが望むことなら何でもします。だから…」 縋りつくような瞳で見つめてくる隼人は…微かに震えていて。今まで彼にとって“抱かれる”と言う行為が、幸せなものでなかった事を悟ってしまう。 「忘れてしまえ…全て…。」 言葉と共にことさら優しく口付ける。こうして抱きしめられる事で得られる喜びがあるのだと、今まで傷付き続けた彼に知って欲しくて。 「…何…を?」 ほんの少し甘いだけのキスに、戸惑ったように見上げて来る獄寺隼人と言う人間が悲しい。こんなもの、愛された記憶のある人間なら誰もが知っているはずなのに…彼は、それすらをも知らないのだ。それでいて…己にとって苦痛でしかないはずの“抱かれる”と言う行為を求める。そうする事でしか生きられなかったのだとしたら…もっと貪欲に求めてもいい愛情があるのだと、教えたいと思った。 「怖がるな。お前は…ただ俺を感じていればいい。」 半身を起こしたまま、見上げてくる隼人の耳元に囁きながら、ゆるく唇を触れ合わせれば…今にも溢れてしまいそうだった滴が、頬を伝って雨に変わる。 溶かすような甘い口付け。少しずつ深くなるそれは…毒のように思考をさらって行く。触れる唇の熱さも、肌を滑る迷いのない指先も…今まで知らなかったもの。誰も自分に、こんなに優しく触れたりはしなかった。誰もが皆、強引に奪ってゆくだけで、ただ与えるだけの愛撫をくれる人なんていなかった。それが…こんなに温かいなんて…。 「どうした…?」 真っ直ぐに合わされた視線。その深遠を思わせる漆黒の瞳に、冷水を浴びせられたような気持ちになる。この腕は…自分の為のものではない。それは、忘れてはいけない事実だったのに…あまりに優しいその態度に…そんな簡単な事さえ、忘れかけていた。 「…今だけを見ろ。余計な事を考えるな。お前はただ、与えられる全てを受け止めればいい。」 耳元に囁かれる声。甘いその声は…理性を溶かす麻薬。これは、あいつの身代わりでしかない俺が…手にしていい幸せなのか?こんな不安、今まで感じた事なんてなかった。自分にとってあいつは裏切り者で、長いこと、憎むべき相手だったから。あいつが得るべき幸せを与えられて、こんな気持ちになるなんて…考えもしなかった。 「俺だけを見ろ。」 思考に陥りかけた意識を引き上げる、静かなくせに存在感のある声。耳元に寄せられた唇が、優しく耳朶を食む感触に、背筋を伝う、ぞくりとしたもの。 「乱れて…しまえ。」 全てをさらけ出せと囁く、恐ろしいほどの艶を含んだ声に、理性が陥落する。 「…リボ…ンさん…」 本当はずっと、手を伸ばして、温もりを確かめたかった。一方的に奪われるだけでなく、自分からも抱きしめ返したかった。その願いを、この人が叶えてくれる。あいつでなく、自分がここにいて良いのだと…リボーンさんは言ってくれる。自分の存在を認められる、そのことが何よりも嬉しかった。 「…んっ」 相手を喜ばせるためでなく、自分から求める初めてのキス。打算でも、計算でもなく、ただ愛されるためだけに触れ合わせる体の熱さに…目眩がする。目的をもって、ただ羽織っているだけのシャツに隠れた胸元に這わされる指先の感触も、その合間に落とされる深すぎる口付けも…全てが自分のためだけのものなのだ。 「…どうした?」 「怖いです。こんな幸せ…夢じゃないかと思えてしまって。瞳が覚めたら…また、ストリートで仲間達に犯されている自分がいるような気がして…。」 己の不安を見透かすような問いかけに、素直な言葉を返す。こんな幸せを知らないから、幸せである自分が怖い。こんな都合の良い夢、あるはずがない。そう、思えてしまって。ああ、そうだ。こんな感情を…あいつも抱いていた事があった。血と硝煙にまみれて、日々を過ごしていたあいつが…日本に渡って、平和過ぎる学校生活なんてものを送り始めた頃、ふとした瞬間にもらしていた。 『どっちが現実なのか、分からなくなる。怖いんだ…幸せ過ぎて。』 あの時俺は、馬鹿な事を言う奴だと思っていた。俺に汚いもの全て押し付けて、光のさす場所へ逃げたあいつが、安穏とした生ぬるい生活に不満を感じるなんて贅沢だと…そう思っていた。 「…何を考えている、隼人?」 少し冷えた声と共に、胸の突起に這わされるぬめりを帯びた温かなもの。優しく丹念に同じ場所を刺激するそれに、慣れきった体は、熱を帯びる。ああ、あいつは…それすらをひどく嫌悪していた。気持ちも伴わないのに、反応する体を…。ならばせめて、乱れてしまえばいいのに…それすらできずに。そんなあいつを、愚かだと…俺は思っていた。感じられる熱があるのなら、その熱に身を任せてしまえばいい。そうすれば、楽になれると知っていた。嫌なことになら…目を瞑ってしまえばいいと。 「…あっ!」 確信を込めて己の体の中心で立ち上がったものに、這わされる舌。こんな痛みを伴わない、甘く溶かすような行為を知らない。体の内から熱を帯びてゆく感覚も。思考さえ…熱く溶かす大きな波も。 「…んっ、ああっ!!」 常ではありえないほど高く甘く響いた声と共に、飛び散る白濁した液体。高みを迎えて弛緩した体の中心に再び熱を灯すべく蠢く、細く節くれだった手。己の内から吐き出されたそれをからめとるその指先が…次に向う場所を知っている。その場所に触れられる事を望んだことなど、今まで一度としてなかったのに、今は、その場所を熱く満たすものが欲しい。 「リ…ボーン…さっ…」 渇望を知らしめるように、己の腰辺りにある、彼の漆黒の髪に手を伸ばす。そうすれば、焦らすこともなく、ゆるゆると与えられるもの。 「…っあ!」 細い指が、いたずらを仕掛けるように、身の内と外とをつなぐ場所へと触れる。それだけの事に、飛んでしまいそうな意識。慰めるようにゆるく立ち上がった己のものに這わされる舌。それだけで、狂いそうになる。こんな溺れてしまいそうな熱さを知らない。 「…っは…ぁ…」 零れる声は、現実とは思えないほど遠い場所で響いていて。それが、己の口から出たものである事さえ認識できない。意識せずに漏れ続けるそれを堰き止めるのは…唇に触れた、熱すぎる舌。唾液が混ざり合うほどに、深く浅く繰り返される口付けに…かすむ、意識。触れてくる優しい指先と、自分のためだけに重ねられる口付け。ただ自分のためだけの温もりに…頬を伝い落ちた雫。 「…隼人…。」 甘く己の名を呼ぶ声が、こんなに嬉しいものだなんて知らなかったから、それ以上を望めない。 「…何が、欲しい?」 艶を増した声が、囁く言葉は…逃れる事のできない呪縛。 「…あなたを…。今だけ俺に…あなたを…下さい。」 魅きつけられるようにこぼれた言葉は…許容量を超えた感情の欠片。欲しいのは、己を抱き寄せるあたたかな腕。そして…全てを忘れさせてくれる…熱。 求めに応じてうなずいてくれた人の黒い瞳が…止める術を忘れてしまったように、零れ落ち続ける涙で…見えなくなる。それを不安に思う間もなく、それと認識せずに、身の内に受け入れていたものが引き抜かれる。たったそれだけの事に、震えた…背筋。 「そんなに感じてくれたのか…?」 ふと笑ったリボーンさんの表情。行為に対する自分の態度を喜んでくれた。その事が嬉しい。 「…リボーンさん…」 甘えるように彼の首に腕を回して、キスをねだる。触れ合わせる唇の熱さを、ずっと忘れない。 「挿れる…ぞ。」 低く掠れた声が耳元で囁くのと同時に、身の内に入り込む圧倒的な熱。 「…ああっ!」 意識もせず、己の口から零れた甘い喘ぎ。己の内で脈打つこの熱を、強く抱きしめられた幸せを…俺はずっと忘れない。 「…隼人。今は…俺だけを…感じろ。」 静かに降ってくる声と共に、体を揺らされて、何も考えられなくなる。聞こえるのはただ…快楽に浮かされて閉じる事のできなくなった口から溢れる意味を成さない喘ぎと、己の内から響く、粘着質な水音。 熱に翻弄される体が感じているのは…波に揺られて、浮遊するような感覚。それでもそれを怖いと感じないのは…体の内側を満たす熱と、確かにある、人の気配。今自分は…どんな時よりも満たされていると感じられる。 「…っん、あ…あ…っあ…」 身の内深くを犯し続ける肉の感触に…意識はぼやけてゆくのに、感覚だけは研ぎ澄まされて…許容量を超えた快楽に…狂ってしまいそう。 「…イク…っぞ…」 耳元に吹き込むように落とされた声と共に、一層深く入り込んだ熱が…体の一番深い場所を刺激する。 「…っあああっ!」 身の内ではじけたモノと、より一層高く響いた自分の声。整わない呼吸と、まだ体の内に残されたままの他人の熱にほっとして、背中に回した腕にほんの少しだけ力を込める。 「…りがとう…ございます。」 今まで商品、あるいは欲望を満たすためだけの道具としか見られた事のなかった自分を、初めて人として抱いてくれた優しい人にそう告げる。 「キス…して下さい。」 絶頂を迎えて朦朧とした意識の中でつぶやけば、額に落とされる確かな熱。まさかそんな場所にキスされるとは思っていなくて、驚いた表情をしただろう俺に返されたのは…柔らかな微笑み。この人がこんな表情をするなんて考えた事もなくて、呆然と見つめていたら、その微笑を形作った唇が俺のソレへと触れ合わされていて…。 「…満足か?」 更に笑みを深くしたリボーンさんに、今度は自分から微笑みかける。 「…ええ。こんなに幸せな気分になれたのなんて…初めてです。だからリボーンさん、こいつにも…同じ幸せを与えて下さい。」 「いい…のか?」 確認をとるように聞いてくるリボーンさんに心配ないと笑ってみせる。もう何一つ、思い残すことなどないのだと。 「ずっとこいつを恨んでました。だけど…あなたの熱を知って、初めて…こいつの事、分かった気がするんです。おかしいですね…他人の存在を介して、自分を知る…なんて。」 笑うつもりだったのに、溢れる涙。後悔なんて、本当にないのに。どうして、こんなに感情が揺れるのだろう。 「分かった、隼人。ゆっくり…お休み。」 きつく抱きしめられて、食むように繰り返されるキス。俺は一人じゃない。そして…あいつもきっと、一人じゃない。だから… 「さよなら…リボー…ンさん…」 温かな熱に抱かれて、落ちてゆく意識。これでようやく自分達は…一つに、戻れる。 安心したように眠りに落ちた隼人の表情は…ひどく、穏やかで。触れた頬も、まだ繋がったままの身の内さえ、熱をはらんだままだと言うのに…彼は、もうここにはいないのだ。消えてしまった。もう一人の自分に…全てを託して。 「お前達は…きっと一緒にいられたのに…。」 つぶやく言葉に、信憑性などない。けれど、同じ苦しみを持つ者同士だからこそ、分かり合えると信じたかった。 「さよなら…か。」 つぶやいて、その唇に口付ける。 それは、抱かれる事を嫌いながら、抱かれる事でしか自分自身を認識する事ができなかった隼人が、俺に一番初めに望んだ事。そうして彼の熱を確かめれば…出会った日の彼の事を思い出す。 夜とも朝ともつかないひどく曖昧な時間に、ただ、夜を眺めていた、寂しい…瞳。縋るように求められた口付けに応えたのは…普段の自分らしくないと知っていた。それでも、キスを施したのは…隼人が…ひどく不安定な存在に思えたから。 「…獄寺…。」 もうここにはいない人間を思いながら、本来の彼の名を呼べば…ゆっくりと持ち上げられる瞼。ゆっくりと広がる緑から零れるのは…隼人がここにいたという証。 「…リ…ボーン…さ…?」 問いかける獄寺の声を聞きながら、頬を伝った滴を指先にすくい取ろうとした瞬間に、ざっと温度を失くす体。 「…あ…あ…あああぁぁぁ…!」 一瞬の間を置いて、吐き出された叫びは…恐怖と絶望に彩られていて。 「獄寺っ!」 無茶な動きで逃れようとする体を押さえつければ、見開かれた瞳からは、留める術を忘れてしまったかのように涙だけがこぼれて行く。 「ああああああああぁぁぁぁぁ……」 呼びかける声にすら気付けないまま、喉から搾り出される声。身動きなど出来ないほど押さえつけられた状態で…それでも、そこから逃れようと、振り回される手足。あまりの抵抗に一瞬ひるんだ自分の隙を付くように、押さえつけていた腕をすり抜けた手が、下半身を固定されたままで、身をよじるようにして、シーツへと伸ばされる。 「…ぐぅっ…」 その性急な動作に、呻きと共に止まった体。嗅ぎ慣れた血の香りに、彼の内が傷付いた事を知る。 「…獄寺。」 呼吸を整えるようにして、静かに呼びかけた声に、びくりと揺れた体。 「…俺が…分かるな?」 問いかけに、戻された視線。自分の姿を映す緑の双眸は、どこか焦点を結ばないままで。 「お前達はもう…十分苦しんだ。違うか?」 「…いや…。もう…許して…くださっ…」 少し強く肩を引き寄せれば、カタカタと震えだす体。その反応に、彼の中の深い…深すぎる傷を見る。 そうして、何故隼人が…表に出てくることになったのか、そのきっかけすらも。獄寺と言う、負を認められない人間の中にあって、負を負として認め、許容することができた存在。 隼人は“個”である獄寺が壊れてしまわないように、表に出る事を選んだのだろう。隼人がそうした事で、当の獄寺は、負に彩られた己の世界の全てを切り捨てて、封印した。自分が“正”であるために。 「…獄寺…。」 色を失くして、カタカタと震えるだけの存在に手を伸ばす。ここにいるのは、俺が知る獄寺でも隼人でもない。ただ脅えるばかりの幼い子供。 闇に閉ざされたままの自分の世界から抜け出す事の出来ないこの子供が…隼人の望みを叶えるための道標。隼人はずっと獄寺を憎みながら、心のどこか片隅では、誰よりも彼を…救いたいと願っていたのだろう。 だからこそ、己の気持ちが満たされた瞬間に、自身の存在を消す事を選択した。自分がこの場に在る事が望ましくないと、隼人は…知っていたのだ。 だから… 「逃げるな。」 お前が逃げて、隼人が受け入れたものから。 「…自分を見ろ。どんなに逃げ続けても…お前はキレイなままでなんかいられない。」 「…に、を…?」 涙を溜めて限界まで見開かれた瞳にも、不安ばかりを前面に押し出して問いかけてくる声にも、苛立つ…ばかりだ。俺はこんな男を認めない。隼人は、決してこんな弱いだけの表情をさらしたりはしなかった。 「目を開けろっ!そして自分自身と向き合え。逃げても何も解決しないと…お前ももう気付いているだろう?」 自分自身を受け入れない限り、この悪夢は終わらない。隼人は全てを受け入れ決断した。それを無駄にしない為にも、被害者面をするばかりの目の前の子供には…現実を顧みてもらわなければ困るのだ。それがどんなに…酷な事だったとしても。 「しっかりしろ、獄寺。過去なんていくらだって清算できる。だからっ!お前が望んだものを…思い出せ。」 こんなにも壊れきった心で…それでも遠い昔に、望んだもの。己の心を引きちぎってまで、叶えたかった望みを思い出せ。そう促すつもりで吐き出した言葉に、胸が痛む。出会ったばかりの頃、馬鹿の一つ覚えのように「十代目の右腕になります」と言っていた。それをからかう資格など、俺にはなかったのだ。 「望んだ…もの?」 「そうだ。お前が傷付きながら追い続けた夢は、一体…何だった?」 忘れてしまったとは言わせない。そんな簡単な思いだったとは、言えるはずがない。 「マフィアに…自分が心から信頼できる人の元で、その人のために働く…」 うわ言のようにつぶやかれた言葉がふいに止んで、焦点を結ばなかった瞳に戻ってくる、命の色。 「…リ…ボーン、さん…ど…して?」 繋がったままの体に対する違和感のせいか、戸惑ったようにつぶやかれる声に、愛しさを覚える。 「抱きしめても…いいか?」 まだ震えの残る肩に手を置いて問いかければ、気配だけが小さくうなずく。隼人が受け入れた“抱かれる”と言う行為を、決して受け入れる事がなかった獄寺にとって、すでに繋げられた体も、肌を触れ合わせると言う行為も…進んで手にしたいものではないだろうから、慎重に…手を伸ばす。緩やかに引き寄せて…きつく抱き込めば…獄寺の内に抱き込まれた自分自身は、より深く彼の中へと入り込む。 「…っん!」 体勢の変化に、噛み締められる唇。 「キスしても…?」 そんな姿を見ていたくなくて、更に言葉を重ねれば…無言のまま、首筋に絡みつく両腕。けれどそれは…促される快楽を認めるためのものではなく、拒絶をしながら受け入れざるを得ない者のそれで。 「人はきれいなばかりでは生きていけない。だから…受け入れろ。きっと…楽になれる。」 獄寺にとってそれが容易な事ではないと知りながら、それ以外の言葉を与える事のできない自分は残酷だ。解っていて、それでも強要せずにはいられない。隼人の願いを別にしても、獄寺に自分を受け入れて欲しいと願ってしまった。 「愛しているとは言ってやれない。だが…大切だとだけ覚えていて欲しい。」 零れ落ちた言葉は、俺の中の真実。呪われた身で、誰か一人の人間を愛する事などできないと知っていたから。手放したくない“大切”ばかりが増えてゆく。本当はそれすら、自分が手にして良いものなのかなど、わからないけれど。全ての人間を平等だと言う至上の存在が本当にこの世に在るのなら、このくらいの我儘など聞き入れてくれるだろう。 「大切…ですか?俺…なんかが?」 震える声で問いかけられたその内容にはっとする。まるで信じられない言葉を聞いたと言わんばかりの表情でそう言う彼の真意は、一体どこにあるのだろう。 「信じられないか?」 「俺を抱く誰もが、俺を必要だなんて言いはしませんでした。あなたがそうでないと言い切れるだけの材料が…俺には…ありません。」 信じたいのに、信じることが出来ないと言う。それはきっと何より悲しい現実。だから、手を伸べたいと思った。愛される事を知らない、可哀想な…子供に。 「言葉を信じることができないのなら…体で、確かめればいい。」 低く耳元に囁いて、手荒と思えるほど性急に、その唇を貪る。まるで飢えるように激しく…それでいて、己の気持ちの全てを伝えるように…甘く。 「ふ…っん、ん…」 息もつけないほど、何も考えられないほどに求めれば…受け入れる事に慣らされた体が、反応する。それを快感である事を、隼人は認めていた。その事に嫌悪しか感じる事の出来なかった獄寺は…この行為に一体何を見出すのだろう。たとえ何も得る事が出来なかったとしても…せめて、体を繋げると言う事が、相手を深く思う気持ちから始まるのだと知って欲しいと願う。 「…っふ…ぅ…」 飲み込みきれない唾液が口角を伝って行くのを合図にするように唇を離せば、閉じられていた瞼が…静かに上げられて…露に濡れた極上の宝石が現れる。 「…っボーン…さんっ…」 整わない息の下、何かを伝えるように呼ばれる己の名。弱弱しい腕に力が込められて… 「あなたを…信じます。」 掠れた声がそう告げる。それは、どれほどの決意の元に告げられた言葉なのか、俺には推し量る事はできない。ただ、今まで裏切られ、傷付けられ続けた獄寺の心を、少しでも癒す事ができたのだとしたら、それは…彼にとっての大きな一歩だ。 「…そうか。」 囁いて、自分を真っ直ぐ見つめてくる不安を隠しきれない瞳に微笑む。愛を知る事もなく、愛を確かめ合う為の行為だけを知ってしまった子供を驚かせてしまわないように、ゆっくりと手を伸ばす。 「過去など…忘れさせてやる。」 “愛している”とは、言ってやれない代わりに、そんな言葉を告げる。それにすら、嬉しそうに笑う獄寺の、無駄な筋肉が付いていないせいで、どこか華奢と感じる体に指を這わす。そうすれば、びくりと震える気配が伝わって。 一度高めた熱をたどるように、彼自身に触れれば、深く繋がった場所が、歓喜に震えて、俺の熱も高めて行く。 「…んっ」 体の変化に息を飲む気配に顔を上げて…その表情に、抱きしめる腕の力を強くした。 「瞳を開けて、俺を見ろ。」 言葉と共に、血がにじむほど噛み締められた唇を舌先でなぞる。意外な行動に、驚いたようにきつく閉じられたままだった瞳が開けば、泣き出してしまいそうに歪められた面が、少しはましなものに変わる。それに満足して、もう一度口付ければ、感情の高ぶりに色を濃くした緑の瞳から、一筋…零れ落ちるもの。 「…泣くな…。」 「…怖いんです。あなたの事は信じられるはずなのに。あなたに裏切られたらと考えると、怖くて…たまらないっ!」 嗚咽を抑えるように吐き出された声と、カタカタと震える肩に、彼の中の恐怖の大きさを知る。そして、信じると言ってなお、信じきる事ができないほど大きな傷の存在も。それをきっと、獄寺と同じ時間を共有して来た隼人は知っていたのだ。だからこそ、自分の中のたった一つの心残りを俺に託した。そう解っても…それを消し去る術など知らない。ましてや、信じさせる事など出来るはずもない。自分の命を…預けるくらいでなければ。 「今だけ…俺の命をお前にやる。」 ホルスターから抜き出した、黒光りする物体。それは、他人の命を奪うと同時に、自分の命を守る為の物。 「お前が俺に裏切られたと思ったなら…この銃で俺を殺せ。」 「そんなっ…俺…そんなつもりで…」 慌てたように拒否を示す獄寺の、震える手に愛用の銃を握らせる。 「安全装置は外してある。良すぎて…誤射してくれるなよ?」 にやりと口の端を引き上げて、何かを返そうと開いては閉じられる唇にキスをする。今度こそ、ただ獄寺のためだけに。そうして、この熱が…彼の心を溶かせばいい。 俺に縋りつくその腕で、いつか誰かを…愛せればいい。 固まったように動かす事ができない右手に握り締めているのは、自分を抱いている人の命。今まで一度としてリボーンさんが、この銃をその身から離すのなど見た事がなかった。人の命を奪い、そのために、人から命を狙われる事も多いこの人が、自分を守る為の道具を、これ一つに絞っているなんて事はありえないだろうけど、一番手に馴染んでいるだろうそれを、軽い気持ちで手渡したとは思えないから…俺の手の中にあるこれは…紛れもなく、彼の命そのものだ。 「…何を考えている?」 「…あなたの事を。」 幸せな気持ちでつづった言葉は…彼の唇に触れた途端に、嫌な思い出に変わってしまう。遠い昔父に教えられた、相手に媚びる為の方法。これは…その中にあった。 「深く考えるな。お前は…感覚だけを追えばいい。」 ああそうだ。この言葉も知っている。だけど、そんな事…できるはずがない。何の見返りもなく、俺を抱く人間などいないのだから。 「獄寺…。」 耳元に囁かれる声に、はっとする。過去になど引きずられたくないのに、どうしてもそこに飛ぶ意識。 「俺はここにいる。」 力強い声と共に、己の存在を知らしめるように、深くなる口付け。この熱に酔えればいいのに。それすらできない自分は欠陥品なのだ。 「過去に捕らわれるな。俺だけを…見ろ。」 抱き締める腕の強さと共に、触れ合わされる唇。少しずつ深くなるそれに…絡め取られて行く意識。触れてくる手の熱さと、施される熱を高める為の行為に集中すれば…抱かれている…と言う、現実だけが残る。 「ん、んん…ふ…」 零れそうになる声を唇を噛み締める事で耐える。そうしないと、嫌悪感と共に、思い出したくもない事を思い出してしまう。 「声を抑えるな。」 記憶の中の声と寸分違わず重なったそれ。命すら預けてくれたその人さえ忘れてしまうほどに、自分を満たして行く恐怖の存在に…手にしたままの彼の命を、こめかみに押し当てる。 「獄寺!!」 恐慌に陥った己の手を止める。温かな体温。手にした銃を抑えるために、乱暴にベッドに押し付けられながら、自分を見下ろしているその人の、不安をにじませた表情に…泣きたくなる。 「俺にお前を殺させるつもりか?」 右手の銃に手を添えて、吐き出された言葉。 「…俺…すみません…。」 “自分を信じろ”と、態度で示してくれたリボーンさんを裏切ったのは、俺の方だ。“信じる”と言っておいて、欠片も信じてなどいないと、自分で…証明してしまった。 「…俺…。」 「大丈夫だ。俺はお前を裏切らない。」 囁かれる言葉に、溢れ出す涙。今まで誰も、こんな優しい言葉をくれなかった。 「…リボ…っさ…。全て…忘れさせて下さい。」 過去も、あなたを信じる事ができなかった自分も…全て。 高ぶった感情をどうする事もできずに伸ばした手に、残されたままの重み。それら全てを受け止めてくれる彼の手に、確かな安心が生まれる。 「これは…お返しします。こんなものなくても…あなたは俺を裏切らない。」 自然にもれた笑みに勇気づけられるように、固まったように外す事のできなかった右手を、冷たいそれから引き剥がす。 「…わかった。」 静かな声と共に、定位置に戻される、冷たい彼の命。ほんの少しの間だけ手にしたそれの代わりに、欲しいと願ってしまったもの。 「…キスして…下さい。」 震える声で吐き出した言葉。それは…ずっとずっと長い事、心の奥深くに封じ続けた願い。奪われるばかりで、自ら望んで与えられることのなかったそれを…ずっと、ねだってみたかった。 必死に伸ばした手を…優しく包み込んでくれる温もり。それどころか、しっかりと抱き締められて…ゆるやかに与えられる口付け。貪るように求めて…その熱を確かめる。そうしていないと…怖くてたまらない。 「そんな表情をするな。」 優しい声がそう言って、温かな指先が、頬を伝った涙をぬぐってくれる。それが嬉しくて…より一層零れ落ちる涙を、彼はただ、呆れ顔で指に絡め取る。 「もう…泣くな。」 低く囁く声に、ぞくりと背筋を駆け上がるもの。 「…っん…」 一瞬の波に収縮したその場所で、身の内にある他人の熱を確かめる。そうする事で…湧き上がる、歓喜。欲しいと思った。多分、今まで生きて来た中で、初めて。 「あなたと…一つに、なりたい…。」 ポロリと、こぼれ落ちた言葉。今までそんな事、考えた事もなかったのに、何故そう思ってしまったのか。答えなんて簡単だ。彼が…優しすぎるから。“愛している”と言えない代わりに“大切だ”と言った。受け入れる事の出来ない思いを、そんな言葉で遠まわしに拒否した、この人の優しさに触れたくなった。 「今この瞬間だけ…俺を…愛して下さい。」 言葉と共に手を伸ばす。この人の全てを…この一時だけ、己のものにする為に。 ただひとつだけが欲しい。熱い波の中でそう願った。必死ですがり付いて、声を上げた。今まで他人のためにしか存在しなかった己の体を、リボーンさんが自分だけのものにしてくれた。求めてもいい愛情があるのだと…この人が教えてくれた。 「…疲れたか?」 “ええ、少しだけ。” 思う様感情を吐き出したせいで、すっかり嗄れてしまった喉では、まともな声など出せるはずもなく、目線だけでそう返せば、いたわるように頬に添えられる手。その温もりが嬉しくて目を閉じれば…温かな手が…優しく髪を梳いてくれる。 「…がと…ざいます…。」 掠れきった声でそう告げれば、すっかり涸れてしまったのではないかと思っていた涙は、また零れ落ちていて。そうしている間も、髪を梳く手は止まることはなくて…。 「そばにいる。だから…眠ってしまえ。」 頭上から降る声は、魔法のように心を満たして行く。誰かと分け合える温もりが、こんなにも幸せなものなのだと、落ちて行く意識の片隅で思った。 深夜というよりも朝方という表現の方が近い時間。見るものを魅了する美しすぎる月を見据えて…佇む、人影。月の光にシルエットになった後姿は、細身なせいで、どこか華奢な印象を与える。 「よう。」 まるで景色のようにその場所に溶け込んでいた人が振り返って上げた声は、ここの空気にそぐわないくせに、違和感なく空間に溶け込む。だから、 “ああここは、この人の場所なのだ。” と、疑問を抱くこともなく、素直にそう思えた。 「お前、今幸せか?」 不意に尋ねられて、己を顧みる。今、自分には仕えるべき主がいて、信頼できる仲間がいる。そして…欠けたままだった心を、リボーンさんが満たしてくれた。幼い頃得たいと願ったものは、全て手にする事ができた。だからもう…迷う事なく生きて行ける。 「…ああ。」 「…そうか。」 ただ静かにうなずいて、満足したように笑う。ひどく幸せそうに見えるのに…何故だか、その事が怖い。 「…でもお前、これからもっと幸せになれよ?ならなきゃ…俺はお前を許さない。」 穏やかだった彼の変化。肩を掴む手の力が…どこか儚げに見えていた、彼の印象を払拭する。どうして彼は…これほどまでに、自分の幸せを望むのだろう? 「…あんたは?俺の事なんて気にするより、あんたが幸せになれば良い。」 言葉にした瞬間に気付いた。自分が感じていた彼に対する不安の意味に。彼は…先を望んでいないのだ。生きようと…していない。 「あんたはあんたが望むように、自分で生きれば良い。俺は…あんたを背負って生きて行けるほど強くない。」 それが嫌で、口にした言葉に、彼は…全てを諦めた表情で笑う。 「俺の存在が…お前を不幸にするとしても?それでもお前は…俺が生きる事を望むのか?」 まるで試すような言葉。どうして彼が生きている事が、俺の不幸につながるのか?考えて…けれど、導き出せない答え。一瞬の沈黙に彼は…したり顔でうなずいてみせる。 「それでいい。誰だって一番に自分の幸せを願う。だからお前も…自分が幸せになる事だけを望め。お前にとっての幸せが俺の幸せだ。だから…」 明るく笑った彼の唇が“サヨナラ”とつぶやく。それに呼応するように、彼の背後の月が輝きを増して…彼の姿を飲み込もうとする。その事が…怖い。 「…行くなっ!」 とっさに伸ばした手で、掴んだ彼の手の温もり。怖かった。今ここで手を離せば、彼が消えてしまうとわかっていたから、自分の望みもわからないまま…掴んだ彼の手を握り締める。 「勝手に決めて、一人で消えようとするな。」 言葉にした瞬間、それが自分のわだかまりだったのだと気付く。心が満たされて幸せだと感じても、彼に対して恐怖をぬぐえなかった理由にも。それはひどく簡単な事。触れ合った彼の手から流れ込んでくる、自分が拒み続けた記憶が…それを教えてくれる。人は、心の半分を失くして、生きて行く事はできないのだと。 「あんたの幸せが俺の幸せになるなら、俺はあんたが自ら進んで幸せを手放そうとするのを見過ごすわけにはいかない。」 彼に、生きたくないとは言わせない。自分の中に流れ込んでくる記憶も、思いも悲しすぎて。一度として彼自身が、自分のために生きようとしていなかった事ばかりが見えてしまって。そんな彼の存在を…俺はずっと、真っ直ぐ見つめようとはしなかった。 「俺はもう逃げない。だから俺と同じ場所で、あんたにも同じものを見て欲しい。同じものを見て、感じて…あんたが自分で、俺の幸せを確かめればいい。」 思いを込めて、より一層強く握り締めた手。そうすれば彼は…泣き出しそうな顔を向けてくる。 「俺は…存在していてはいけないものなのに?」 「もともと俺達はひとつだった。だからまた元に…ひとつに…戻るだけだ。」 不安に揺れる彼の瞳を見て告げる。元々の要因が自分ならば、元に戻るための要因も自分でなければならない。 「もう二度とあんたを拒んだりしない。あんたが感じる不安も恐怖も、俺が受け止める。だから…一緒に生きよう?」 そんな言葉に、彼の瞳から零れ落ちた滴。ひどく透明なそれは…彼と生きる未来のための、忘れられない誓いになる。 「夢を見たんです。」 十数年も己の中に封じ込めていた記憶を一息に開放した為か、嫌悪感でしか受け止めることのできなかった、体をつなげると言う行為の為か、ベッドから起き上がる事ができないほど体調をくずした獄寺が、浅い眠りから覚めて、そうつぶやいた。 「俺、夢の中で自分と話してるんですけど、夢の中の俺は、自分が話している人間を自分自身とは思ってないんですよ。」 「おかしいでしょう?」と笑う獄寺は、何故か常より浮かれていて。 「俺、夢の中で、もう一人の自分に聞くんです。“幸せか?”って。それにあいつ、“ああ”って、答えてくれて…それで俺に…“一緒に生きよう”って、そう…。」 そこまで言って、感極まったように黙り込む彼の瞳から…零れ落ちる、滴。 「…お前?」 違和感を感じて問いかければ、涙に濡れたままの瞳で…笑う。 「あいつが…消えなくていいって…。」 その事が嬉しいと泣く、目の前の人物は…一体誰なのか。常から知っていた獄寺ではなく、消えてしまった隼人でもない。違和感だらけの存在なのに…それでいて彼は、間違う事なく“獄寺隼人”なのだ。 「リボーンさん。俺は…あなたの知っている“獄寺”であり、“隼人”でもあります。」 「今は意識としては“隼人”に近いですけど。」何でもない事のように笑う彼は…隼人は…ようやく自分自身の中に、居場所を見つける事ができたのだろう。それは、彼等の悲しすぎる傷を見ながら、完全に癒してやることの出来なかった俺にとっても喜ばしい事だ。 「ようやく一つに戻る事ができた。あなたの…おかげです。」 満足そうに笑う彼を見て、ふと尋ねてみたくなった。 「…今、お前は幸せか?」 問いかけに、浮かんだ微笑み。 「はい。」 揺らぐ事なく返された声に、二つの思いが重なる。 「もう二度とあんな気持ちで…月を見上げる事なんてさせませんし、しないです。」 不思議な言い回しでそう言う彼等に、不覚にも目頭が熱くなる。それを誤魔化したくて、抱き寄せた体は…ひどく頼りなくて。 「…リボッ…」 慌てる彼が、確かに生きている証を探すように…その唇に口付ける。そうすれば…聞こえてくる。 月の綺麗な、深夜と言うよりも朝方と言う方が近い時間に「今晩は」と、そう言って、俺の名を呼んだ声が…。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 熊が無茶言って書いてもらいました! すげー! 菊池様すげー!!! そんな凄い菊池様と熊とのあとがき対談! こちらからどうぞっす!! |